Up 川村モノクテ, 1835-1910 作成: 2018-11-17
更新: 2018-11-17




      砂沢クラ (1983), pp.28,29
     私の祖父川村モノクテは、近文アイヌのコタンコロクル (村おき=長) で、私が生まれた明治三十 [1897] 年には、いまの旭川市川端町の石狩川のすぐそばに、ササで作ったアイヌの大きな家を建てて住んでいました。
     モノクテエカシと、妻のテルシフチとの間には七男一女がいましたが、女の子は嫁に行き、男の子たちも、みな分家したり、他家へ養子に入ったりで、五男だった父のクウカルクだけがエカシと暮らしていたのです。
     そんなわけで、私は生まれてからエカシが亡くなる少し前、十歳の年まで、エカシのひざの上で昔話を聞かせてもらったり、村での出来事を見聞きして育ちました。
     エカシの家が大きく立派だったことと言ったら、子供心に、こんなに大きな家をどうやって作るのだろう、と不思議に思ったほどでした。

      同上, pp.31,32
    「川村の家はカムイサスイシリ (神の子孫) だ」というのが、私の祖父モノクテエカシの口ぐせでした。 エカシは、何度も、私たち孫に、川村家の祖先がどんなふうにこの世にくだされたか、を話してくれました。
     ──「昔、まだアイヌが少なかったころ。 ある年の春先、雪どけ水がとうとうと流れる石狩川に、大きな氷のかたまりが流れてきて、その上に小さな男の子が座っていた。 助け上げて、大事に育てて大きくなって妻を持たせたら六人の女の子が生まれた。 この六人の娘が大きくなり、それぞれに夫を持ち、子供が生まれてひとつの村が出来た。 その村の人は旭岳から流れている川のほとりに住んでいたので、ベッチャムウンクル (川のそばに住む人) と呼ばれ、神の子孫として尊ばれた」
     ‥‥
     エカシも、パエトツク (雄弁)、ラメトツク (度胸がある) で、ニシパネ 金持ち) で、神のような人だったから、村の人から選ばれてコタンコロクル (村おき) になったのだ、と思います。

      同上, pp.31,32
    「川村の家はカムイサスイシリ (神の子孫) だ」というのが、私の祖父モノクテエカシの口ぐせでした。 エカシは、何度も、私たち孫に、川村家の祖先がどんなふうにこの世にくだされたか、を話してくれました。
     ──「昔、まだアイヌが少なかったころ。 ある年の春先、雪どけ水がとうとうと流れる石狩川に、大きな氷のかたまりが流れてきて、その上に小さな男の子が座っていた。 助け上げて、大事に育てて大きくなって妻を持たせたら六人の女の子が生まれた。 この六人の娘が大きくなり、それぞれに夫を持ち、子供が生まれてひとつの村が出来た。 その村の人は旭岳から流れている川のほとりに住んでいたので、ベッチャムウンクル (川のそばに住む人) と呼ばれ、神の子孫として尊ばれた」
     ‥‥
     エカシも、パエトツク (雄弁)、ラメトツク (度胸がある) で、ニシパネ 金持ち) で、神のような人だったから、村の人から選ばれてコタンコロクル (村おき) になったのだ、と思います。

      同上, p.35
     「外国へ渡ってはならない」と孫じいさんがやかましく言い残してこの世を去ったので、エカシは青森へ渡りました。
    ある年のこと、立派な毛皮をたくさん持って行ったので、酒をたっぷり飲まきれたうえ、酒樽まで背負わきれ、船に乗ろうと浜へ出たら転んでしまい、それでオンタロセ (樽しょいジジ) とあだ名が付いたそうです。
     家には祖先のじいさんやエカシが毛皮と交換してきた宝物がたくさんありました。

      同上, pp.40,41
     私の祖父モノクテエカシは、近文に来る前は、旭川の奥のキンクシベツ (永山) に住んでいたそうです。
    エカシは、近文に移ってきた理由を「囚人たちがやってきて、恐ろしいことが起きるようになったからだ」と言っていました。
     北海道には、道を切り開いたり、石炭を掘るために、たくさんの囚人が連れてこられていましたが、つらい労働に耐えかねて囚人が看守を殺して逃げたり、囚人同士が殺し合ったり、囚人が見せしめのために殺されたりなどが、しょっちゅう起きていたようです。
     ある年の春先、雪どけ水で川が増水し、渡るのが危険なころでした。 ひとりの囚人がやってきて、エカシに刀をつきつけて「川を渡せ。渡さなかったら殺す」と言いました。 エカシは、川を渡さなければ殺きれるだろうが、渡してやっても向こう岸に着いたら殺される、と思い、若者を一人誘って二人で舟を出しました。
     そうして、向こう岸から二間 (3.6メートル) ほど手前まで来たところで、若者に「声をかけたら岸へ跳べ。オレは囚人を川に落として、カイでたたき殺す」とアイヌ語で言いました。
     囚人が「何を言っているのだ。早く着けろ」と刀を振りかざしていきり立ったところで、ェカシは「エタツク(それっ)」と叫んで舟べりを強く踏み、川にころがり落ちた囚人がアップアップしているところをカイでたたきました。 囚人は、死んで、流れて行ったそうです。
     この囚人は、看守を殺して刀を奪って逃げていたので、エカシはシサム (和人) の殿様 (役人) から「よくやった」とほめられ、たくさんのほうぴをもらったそうです。

      同上, pp.42
     北海道には看守もたくさん来ていたので、その中にはアイヌと仲よくなる人もいました。
    私の祖母のテルシフチ [モノクテの妻] は看守の子供だったそうです。
    父親は、ただの看守ではなく、位の高い立派な人だったとかで、アイヌの家に来て、エカシたちと一緒にアイヌ語でカムイノミ (神への祈り) もしたそうです。
     フチが和人の子供だったからでしょう。 フチの子供は、みな、あまり毛も濃くなく、ピリカオッカヨ (美男)、ピリカメノコ (美女) ばかりでした。

      同上, pp.43
     私の父は鉄砲でクマを捕っていましたが、祖父のモノクテエカシの時代には毒矢で射るだけでした。
    矢がはずれたり、うまく当たってもすぐには死にませんから向かってくるクマと格闘になり、夕シロ (山刀) で仕留めるのはしょっちゅうだったそうです。
      エカシの体には、背中にも手足にも、体中に模様のようにクマにひっかかれた傷、かまれた傷がついていました。
    「エベレ (クマ) は山の神だから、エベレにつけられた傷は治りやすいのだ」とエカシは言っていましたが、昔のクマ猟は、度胸があって知恵があり、機転のきく人でなくては出来なかった、と思います。

      同上, pp.67-69
     冬のとても寒い夜でした。 アイヌ地問題で部落中の男たちがコタンコロクル (村おき) だった祖父のモノクテエカシの家に集まってきました。
     ‥‥
     アイヌ地問題は、アイヌの土地を和人たちがだまして取り上げようとしたため起きました。 旭川の町はずれから第七師団まで見渡す限りアイヌ地で、土地もよく、アイヌが和人の小作人を使って畑を作らせていたので、和人たちはアイヌを追い出したかったのでしょう。
    ‥‥集まりが何度も聞かれ、部落中の人が紙にハンを押して札幌や東京へ持って行く、ということが何年間も繰り返し行われました。
     ‥‥
     そして、私が小学校の三年生になった春 (明治四十年)、私たち近文部落のアイヌは住みなれた家や土地を追われ、町から遠く離れた荒地の中に和人が建てたマサ小屋に移り住むことになったのです。
     あのエカシの立派な家も、家の東側にあった六十頭ものクマの頭を祭った立派なイナウサン (祭壇) も、米ヌカやこぼしたアワツブなどを捨てたムルクタウシも、和人たちは、私たちが家を出るとすぐに壊して古川に投げ捨ててしまったそうです。
     エカシの家にあったアイヌの宝物は、運び出したらトラックいっぱいになったでしょう。 昔は、トラックなどなかったので、エカシは少しずつ運び出すつもりでいた、と思います。 まさか、すぐに壊して捨てるとは思わなかったのでしょう。
     このマサ小屋に移り住んでから悪いことがつぎつぎと起きました。 部落の、そして私たち家族の不幸が始まりました。

      同上, pp.90
     父が死んだ翌年 (明治四十二 [1909] 年) の秋、祖父のモノクテエカシが亡くなりました。
    エカシは、和人の建てたマサ小屋に移ってきた年 (明治四十年) に妻のテルシフチを死なせ、父クウカルクの死後は、父のすぐ下の弟ハクマックルアザボと暮らしていました。
     このアザボは、山でクマに出会うとあわてて逃げるのでハクマックル (あわてもの) と名が付いたような人でした。 七人兄弟の中でも一番度胸がなく、かせぎもなかったのです。
     ハクマックルアザボと暮らすようになってから、エカシはいつも自分でアワをつき、おかゆに炊いて食べていました。 アザボが家族を連れて山へ猟に行き、何カ月も帰らないので、ろくなおかずもないのでした。
     私たち孫が、エカシのところへ昔話を聞きに行っても、食事時になると「きあ、もう帰りなさい」と私たちを家に帰すのです。 自分が食べることにも不自由していたので孫たちに振る舞うことが出来なかったのです。
     アイヌには戸籍などなかったので確かなことはわかりませんが、エカシは亡くなった時、九十歳を超えていたということです。 死ぬまぎわまで元気に働いていて、ある夜、「体の具合が悪い」と横になり、「ゆうべ、わが妻が来て、私の胸を押さえた。それから息苦しくてならない」 と言って、そのあとすぐに亡くなりました。
     ほんとうに、エカシは雄弁で、度胸があり、達者で、働き者で、村の人から選ばれてコタンコロクル (村おき) になるだけのウタラパ (有志の人) でした。 八人の子供をみな丈夫に育て、アイヌの家に住んでいた時は、神のような人と尊ばれていたのに。
     このマサ小屋に移ってからは不運続きで、不遇のうちに亡くなりました。 エカシが晩年をどんな気持ちで過ごしたのか、と考えると、いまも泣いてしまいます。


  • 引用・参考文献
    • 砂沢クラ, 『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983