松浦武四郎は, 「正義漢」タイプである。
このタイプゆえの事実捏造が,ある。
- 正義漢 → ルサンチマン → 残酷物語創作 (事実捏造)
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松浦武四郎 (1857-1860), pp.785,786
東蝦夷地サル場所は素濱にて漁業少なく沿海凡八里斗なるが、山に入る事は凡二十五六里にも成、サルフツ、アツヘツ、フクモミ、ケリマフ、カハリ等といへる川あり。
依て此川筋村居多きが故に、人家凡三百餘軒、人口千三百餘人になりたり。
故に此の地請負の者、當所人數をアツケシ、石狩、アツ夕、ヲタルナイ等へ遣し出稼をぞ致させ召使ひけるに、
其使ひ方、實に彼地へ行候や、一年にて戻り候事やらんまた二年三年も置るゝやらんも斗り難く、
家に残し置かる妻等に其留守を伺ひ番人、稼方等のもの行、強婬致し、行々は妾等になし、
左候時は其夫を三年、五年となく出稼場所に置て故郷へは歸し不レ遣、
また女の子ども行候時は、理非の辨もなき稼方、番人等の為に強婬せられ、または口口口等なさるゝ事有レ之、それが為に産れ附かざる不具となり、
また船方、漁師等の為に病毒を傳染して終に療養とも不レ得はかなくなるもの多き
が故に、實に出稼と口に言はゞ六親眷屬悲しみて生涯の別れの様に覺え、彼地へ行哉晝夜の差別なく饑はらにて追役せらるゝが故に、歸り来らざるまでは實に家にあるものは出稼の者を案じ、出稼の者は家に殘し置夫妻または親子を案て居ける事なりけるに、共事は三歳の兒たりとも恐れざるは無に、‥‥
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同上, pp.810,811
此こと等また三巻を綴りて漸々筆を机上に置んとせしに、
五六日の疲労に如何にも心身草臥、
筆投捨て、
机によりかかり、
一陣と思ふまに、
夢魂陸奥の山川を越え、
七里の怒濤の彼方箱館の港に至り、
此度建しとかいへる、
よく聞侍る、
何とかはなして一見共美を見たくぞ覚え居たる山上の町といへる處の三階へ我も行たるに、
爰に今ぞ栄え昌へし暮し給ふ官吏達が、
彼地に名を得し宮娥糸娥か京糸三絃に、
蛇足の菓子やら武蔵野の料理、
其の幇間には御用達請負人やら問屋ども、大工棟梁、此地差配人阿諛をなし、
歌へや舞へと楽しみ給ふを見ると思ひし其間に、
杯盤を吹来る一陣の腥風に頭ふりかへり見ば、
盤中の魚軒は皆紅血を滴る斗りの人肉、
浸し物かと思ひしは土人の臓腑、
美肉は骨節アパラの数々、
盃中の物は皆なま血、
見るも二目ともかなと、
日面の障子に聖賢の像もやと思ひしは皆土人の亡霊にして、
アヽウラメシヤ アヽウラメシヤの声に目をさましければ、
満身冷汗を流し、
豈元の深川伊豫橋の寓居なる餐熬豆居の南窓の下の机にてありしや。
我が心得はものかは、
四方の君子よく是を熟閲なし給ふ事を冀ふは、
松浦竹四郎源弘しるし卒て。
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- 正義漢 →「目的の正しさは,手法を合理化する」→ 事実捏造
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B.S. ライマン (1874), p.265, p.291.
石狩川ト十勝川ノ分界ナル山脈ノ位置ニ依レバ, 松浦図ノ錯誤モ亦甚ダシ ‥‥‥
松浦氏ノ地図ハ少クトモ十五英里ノ差アリテ,其川筋ノ全ク錯乱セルヲ知レリ
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松本十郎 (1876), p.346, p.363.
松浦氏石狩岳ニ登ノ紀行アレドモ, 役土人申口ニ依レパ全虚ナリ。‥‥
依テ與地図ノ実地ト齟齬シ誤謬ノアルモノ全ク是レガ為ナリ。
大低松前人測量図当今伊能勘解白地図ト称スルニ基クナリ
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松浦氏ノ紀行ハ全ク土人ヨリ聞書タルコト判然,又絵図亦頗ル齟齬セリ。
嗚呼都人士能ク人ヲ欺ク
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更科源蔵 (1973), pp.138,139
こうして翌十九日に現在の旭川に入っているが,その後の行動について「石狩日誌」は,なぜか非常にわかりにくい ‥‥
その内陸は今日の姿になる可能性をもちながら無策のまま捨て去られている,のに対する歯がゆさから故意にこうした方法をとって,内陸の宣伝につとめようとしたのか,それともたんに文章家としての筆の走りすぎであり,それは探険家として批判されるべきであろうか。
いずれにしろ ‥‥ 現在の旭川を中心とした川筋を世に紹介するための,計画的悪戯だったようである。
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- 参考/引用文献
- 松浦武四郎 (1857-1860) : 『近世蝦夷人物誌』
- 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.731-813.
- B.S. ライマン (1874) :『開拓使顧問ホラシ・ケプロン報文』
- 松本十郎 (1876) :『石狩十勝両河紀行』
- 高倉新一郎 [編]『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969.
- 更科源蔵 (1973) :『松浦武四郎──蝦夷への照射』, 淡交社, 1973.
- 小林和夫 (1979) :「松浦武四郎の石狩川踏査」, 北海道地理, No.53, 1979. pp.27-39.
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