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砂沢クラ『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983, p.216
[昭和十年]
ある時、鉄道員の制服を着た、色白で背の高い、きれいなアイヌの青年がチセに来ました。
森竹竹市さん=詩人、北海道アイヌ協会常任監事、白老町立民俗資料館初代館長 (一九○二〜一九七六) =でした。
「アイヌのことで考えたり悩んでいる」「アイヌ語も習いたい」 などと話して帰り、この時から、森竹さんが亡くなるまで、親しい付き合いが続いたのでした。
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同上, pp.327-329
昭和四十四年の春、川村の兄 (カ子トアイヌ) から「妹のコヨが入院した。白老へ行って面倒を見てやってくれないか」と頼まれました。
‥‥
登別温泉にいた時に知り合いになった森竹竹市さん ( 一九〇二〜一九七六年、詩人) はチセの説明員をしていました。
‥‥
この後、しばらくして森竹さんから「東京から客が来た。ユーカラをしてくれ」と頼まれました。
「早く、早く」と断るひまもなく言われ、ふだん着のまま行くと、チセの炉には火がたかれ、上座にエカシが二人、右手の炉縁には口を染めたフチが四、五人座っていました。
私と森竹さんは左手の炉縁に夫婦のように並んで座り、エカシと森竹さんがレプ (炉縁を棒でたたいて拍子を取ること) してくれてユーカラを演じました。
フチたちは「久しぶりに聞いた」と涙を流して喜んでくれました。
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- 参考文献・参考Webサイト
- 著作
- 『原始林 : 若きアイヌの詩集』, 白老ピリカ詩社, 1937
- 『レラコラチ 風のように 森竹竹市遺稿集』の巻末に復刻収録
- 『北海道文学全集 第11巻』, 立風書房, 1980. pp.76-96.
- 山川力(編)『レラコラチ 風のように 森竹竹市遺稿集』, えぞや, 1977
抄 : 川村湊(編)『現代アイヌ文学作品選』(講談社文芸文庫), 講談社, 2010
- 森竹竹市研究会(編)
- 『銀鈴 : 森竹竹市遺稿集』, 2003
- 『ウェペケル : 森竹竹市遺稿集』, 2004
- 『評論 : 森竹竹市遺稿集』, 2009
- 投稿
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小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, 草風館, 1998. p.390
解平運動
白老古潭 森竹竹市
聖代の今日猶部落民として社会より特殊視せられ差別的待遇を受けつヽ居る我アイヌ人に依りて解平運動なるもの起され、一刻も早く解放され至公至平の社会的地位を獲得せんとの叫び声を聞くは、我二万のアイヌ民族の為に吾人は快哉を叫ぶものである。
顧みるに我等の祖先は往昔より此の広大なる北海の天地に住み乍、無智文盲にして何等子孫の将来を憂慮せず、往時より耕作せる田畑は永遠に自己の所有物と思惟し之に対し何等法的手続を為さず漫然として居る時、続々として入り来れる内地人は之等土人の文盲なるに乗じ、初めは其の所有する田畑を賃借の名の下に使用して居たものが何時の間にか之等内地人の名義に変り居るといふ有様にて、之に対し我等の祖先は何等施す術を知らなかったのである。
奮起せよ同族!
我等の前途には幾多の社会的大問題が横たはって居るでは無いか。
我等の安心立命の地は何処にあるか?
我等の無智無能を表徴する土人学校は今尚各地に散在して居るでは無いか。
覚めよ同族!
我等は何時迄も昔のアイヌ人であってはなりません。
かの水平社大会の決議綱領に「吾々は人間性の原理に覚醒し人間最高の完成に向って突進す」との一項があったと記憶するが、我々も此の意気此の覚悟を持って生存競争の激しき社会に起ち 虐げられ劣等視せられつヽ居る我アイヌ民族を社会の水平線上に引上げねばなりません。
他人の力に頼るな、飽迄自分の力で自分を完成しなければだめです。
依頼心は何時迄も我等を卑屈ならしめ弱者の位置に置くものです。
旧土人保護法、土人学校の完備等は現在の我々に対し余りに有難からぬものです。
生存競争に敗れ路傍に喘ぎ疲れて居る者への真の同情真の保護は、其者の手を取り目的地迄共に歩んでやる事です。
然るに斯る落伍者に一片のパンを投げ与へ其侭自分等のみ先へ先へと進み乍、声を大にして徹底的保護した等と宣伝せらるヽのは、誠に憤慨に堪へざる次第です。
今日の一歩の差は明日の百歩の差です。
吾人は此の際軽挙妄動を慎み他に乗ぜらるヽ事なく遠大なる理想の下に真撃なる態度を持って、此の有意義なる運動を龍頭蛇尾に終らしめざらん事を希ひつヽ擱筆するものである。
一九二六、一一、二一稿
〈『北海タイムス』一九二六年一二月二日〉
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同上, 1998. p.399
【菖華鏡】見世物扱ひを中止せよ
◇新聞の報道によると来る二十九日室蘭に入港する聯合艦隊歓迎に際し松尾市長は胆振支庁長の賛成を得て白老アイヌを招き、熊祭りとアイヌ舞踊を将兵に観覧させるとの事であるが、私は全道一萬五千有余のアイヌ民族の名においてこれが中止方を希望するのものである。
◇従来高位顕官の本道を視察に際し、これが接伴の任にあたる当局者は蝦夷情調を深めてその旅情を慰むるためか、殊更アイヌの古老連に旧式な服装をして駅頭に送迎せしめ、あるひは熊祭や手踊などを開いて観覧に供し、同行の新聞記者や写真班員はまたこれが恰も北海道のアイヌの民族現在の日常生活なるが如く報道し、ために世人の認識をあやまらしめ、延いてはこれに対する侮べつ嘲笑の念を誘発せしめてゐたのはわれわれの憤まん禁じ得なかったところである。
◇われわれは今日の非常時を認識することにおいて人後に落つるものではなく、従って直接護国の任にあたる皇国将兵の労苦を思ひこれを慰めんとする誠意においてまた何人にも譲るものではないが しかしそれには後進民族を見世物扱ひするが如き非人道的方法によらずとも他に幾多の方法はあるべく、私は同族の一人として黙視するに忍びず、敢てこの言をなすものである。
(憤慨生)
〈『小樽新聞」一九三四年八月二四日〉
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同上, 1998. pp.400-402
ウタリーへの一考察
静内町 森竹竹市
去る六月五日親友学田清太郎兄と、ウタリー訪問を思ひ立ち白老や近文に旅行せる際、滅多に出歩かれない事故 此の際、道庁にウタリーの大御所喜多章明さんを訪ねて敬意を表すると共に色々御願もして置かうと云ふ事になり、札幌にウタリーならぬウタリーを訪問し久方振りに其の快談に接する事が出来ました。
翌六日氏の紹介に依り役所にて小野寺社会課主事殿に御目にかゝり色々ウタリーに関し話合ましたが 其折本誌に是非ウタリーに関する記事を寄稿する様にとの御勧めを受けました。
浅学なる私が貴重なる紙上に於て私見を発表する事は真に僭越な事でありますが「ウタリーの将来」と云ふ事に就いては同族としての立場から、ウタリーの保護事務を鞅掌する当局者や、ウタリーの指導者と目さるる社会事業家とは又異った一見解を有するものでありますから折角与へられた此の機会に於て日頃抱懐する所信の一端を披瀝さして戴きたいと存じます。
アイヌ古丹で有名な白老に生れ幼にして父を失ひ、盲目なる母の手に育てられたる私は義務教育中も春より秋にかけて学校を休み漁場の小僧に雇はれて家計を助け、冬期間だけ通学するといふ、貧しいウタリーの多い中にも取りわけ貧しく生立ち、学齢を終へるや浪荒き石狩の海に鰊獲る群に混り、又或年は年老し母が生前祖先の熊祭を催したいとの願から、古老に頼みて熊狩に連れられ深山の雪穴に三日二晩置き去りにされ、すんでの事に凍死する目に遭ふ等 幼少年時代は筆舌に尽し難い苦難を嘗めたものでした。
其の侭順当に行けば今頃は漁場の船頭か、熊狩の名人として亡び行く民族と言はるゝアイヌの名を高からしむる?べきを──運命の神の悪戯からか鉄道界に入り爾来年を閲する事十有六年──殺伐な事のみを生業とするアイヌ民族に果して綿密なる事務的才能ありや否や──社会より課せられた此の?に応ふべく努力し雇員試験にパスし鉄道教習所にも入所して現在は鉄道業務の中堅たる貨物掛を拝命── 一萬五千有余の同族の為に「彼等も使へばどんな処にでも使へる民族である」といふ事実を世に示して居る者であります。
ウタリーの為に! 亡びゆく民族として嘲笑せられ、後進民族として侮辱せらるゝウタリーの為に、出来得る限り尽してお互の向上を図りたい──斯うした考から上司に御願して成る可くウタリーの多く住む土地に勤務さして戴くことにし 以前はアイヌの首都と云はるゝ義経神社の所在地伝説のコタン平取の近在にある佐瑠太駅に勤務し 現在は更に道史に名高い驍将シヤクサインの生地にして、其の古城趾を朝夕仰ぐ染退の町に住み、勤務の余暇には進んでウタリーを訪問し未来に良生する道を語り合っては居るものゝ後進民族が必ず一度は辿るであらう遙高きに在る文化層への険路に喘ぐウタリーの痛々しい姿を見──疲弊せる其の日常生活を目撃した時に私はもう少し真剣な同族愛に立返り、神が自分に与へた重大なる使命に邁進すべきである事を判然認識する者であります。
近頃若いウタリーから──保護法を廃せ──と云ふ叫ぴを聞かされますが私も其れには双手を揚げて賛成する一人であります──保護民族──此の一語こそ若いウタリーの気を滅入らせ、品位を傷つけ清純な童心を、へし曲げるものである事を思ふ時 一日も早く此の境遇から脱したいと思ひます。
けれど之は時代に目覚めた一部若いウタリーだけの希望であって 実際多くのウタリーの日常生活を考へた時 保護法を即時撤廃せよとは残念乍ら言ひ得ないのであります。
故に此の際我々の要求としては保護法の改廃を行ひ、存続すべき法も恒久性のものとせず其の廃止時季を今後十年乃至十五年後として明示し、断然ウタリーの一大自覚を促がされん事であります。
不時の災厄に備ふるに一銭の貯蓄なく共治療に事欠かず、貧困の場合には農具や種子を無料で貰へる様な保護施設も最初の中こそ真に恐縮な事である、申し訳ない事であると思ふけれど 慣れるに従って貰ふ事が当然の様に考へて来るものです。
要するに物質的保護はウタリーの自力更生精神を阻害し勤倹貯蓄心を欠去し、遊惰性に導くものであると断言しても過言では無いのであります。
「窮すれば通ず」で、人間一度斯うしなければ絶対駄目だと思った時必ず其処に自分の活路を見出すべきものであり、依頼心は其の人を退嬰的にし、卑屈ならしむるものであります。
思ふて此処に至れば保護法存否の是非を深く考へさせられます。
今仮に我等アイヌ民族の非常時?(保護法の撤廃時季) を卅五、六年ならぬ昭和廿年乃至廿五年と仮定するなら 其れ迄にどうしても成さねばならぬ大問題は住宅の改善であります。
漸く時代に目覚めかゝったウタリーが之に腐心致して居るのですけれども 食ふ事に追はれて中々其の実現が渉らないのであります。
「衣食住足って礼節を知る」と云ひますが 着る事と食ふ事だけは、どうにか現代人と同じになっても 肝腎の生活の本拠が原始時代其侭の草萱小屋に住んで居る様では 何時迄過ぎても其の心が進化しないばかりでなく世聞からも侮蔑の対象物とされます。
殊に保健上から観る時、採光設備少ない為家内は常に湿気を帯ぴ 炉火の煙にさらでだに薄暗き室内は蒙々として 全く非衛生極まりないものであります。
ウタリーの中にトラホーム患者と結核患者の多いのはこゝに原因して居るものと思ひます。
静内土人病院に於ける昨年のウタリー死亡者が十人、其の中八人迄が結核患者である事を聞かされた時 私は慄然たらざるを得ないのであります。
斯くの如き事実を知るとき病菌の培養所とも目される不良住宅の改善を等閑に附し徒に多額の救療費を支出する事は 本末顛倒も甚しいものではなからうか、と言はざるを得ないのであります。
悪因の存する所必ず悪果在りで 消極的な保護施設より、積極的に擢病者を出さざる様抜本塞源の策を樹てる事が、より人道的であり社会的であると考へさせられます。
尚此の外急を要する問題に アイヌ民族の無智を社会に表明する土人学校の廃止すべきがあり、其の他全社会に向って是正を要求すべき幾多の問題あれど 後日稿を更めて記述する事にし此処に妄言を謝して擱筆致します。(完)
〈『北海道社会事業』第二八号一九三四年八月〉
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