Up 村山七郎, 1908-1995 作成: 2019-11-21
更新: 2019-11-21


  • 著作
    • 村山七郎 (1992) :『アイヌ語の起源』, 三一書房, 1992.
    • 村山七郎 (1993) :『アイヌ語の研究』, 三一書房, 1993.

  • 参考Webサイト・参考文献

      村山七郎 (1993). pp.12-14.
     畏友国分直一氏の『日本民族文化の研究』(慶友社1972年,p.487) にアイヌに関して形質人類学者,鈴木尚氏の見解をその「東北地方の古人骨」(『蝦夷』古代史研究第二集,1956年) からの次の引用によって示している。
     「 アイヌが曾って本州一帯に広がっていたと見倣すよりも,寧ろアイヌと日本人との人種的境界線は太古以来津軽海峡であると考えるべきではなかろうか。但し地理的に見ても両者は甚だ近い関係にあるから,相互の交通は古くからあったに相違ない。従って北海道アイヌが奥州の北部に渡来し,居住することは当然あり得ることである。私は文献上の近世アイヌおよび本編に述べたアイヌ人骨はこの様な北海道から渡来した人々及び遺骨と考えたいのである。しかもこのように考えてこそ近世またはこれに近い時代の文献上の蝦夷が今日の北海道アイヌと同ーの身体形質と言語・風俗・習慣をもち,且つ本編に述べたように本州の近世アイヌ人骨が比較的純粋に北海道アイヌ的であることの理由が,初めて充分に理解されるように思われる。」
     アイヌが太古以来,北海道だけに住んでいたと思われることを述べるのであるが,もし,そうであるとすれば,アイヌは北方系の民族であるということになり,その言語も北方系の言語である,という結論が下されても,おかしくない,ということになろう。ところが,アイヌ語とカムチャツカ半島及びその以北のチュクチュ地域に行なわれるチュクチュ・カムチャダル語族の言語とは文法の面でも基礎語彙の面でも共通のものは見られない。またトルコ系のヤクート族の言語,ツングース系のエヴェンキ,ラムート族の言語とも,さらにまたギリヤーク (=ニヴフ) 語とも文法,基礎語彙において共通のものが見られないのはどうしたことであろうか。
     反対に,アイヌ語はオーストロネシア諸語とは基礎語棄において共通のものが多く見られるのはどうしたことであろうか。
     アイヌ語の民族性の問題は今後,言語の面を重視して根本的に考え直すことが要求されていると思う。
     上掲の鈴木尚氏の見解と対照的なのは同じく形質人類学者埴原和郎氏の見解である。 (両氏とも東京大学の形質人類学の教授であった。)
     最近の著書『日本人の起源』(国際高等研究所, 1992年10月) の中で,埴原氏は次のように述べる (p.32, p.33) 。
     「 種々の分析をしますと、アイヌ・沖縄の人たちは縄文人や南アジア系の人たちに似ており,北アジア系の人たちとは大きく異なっていることがわかります。逆に,現代の本土人の多くはむしろ北アジア系の人たちに似ており,縄文人とはかなり違います。このような理由から従来は,日本列島の中で縄文人と北アジア系 (大陸系) の人が入れ替わったという「人種置換説」,縄文人が近隣民族と混血したという「混血説」,縄文人がそのまま進化して現代日本人になったという「移行説 (または連続説)」が提出されたのですが,これらの説ではアイヌ・沖縄人の類似性や彼らと本土人との関係,あるいは日本列島内での規則的な地域性などを説明することができません。しかし,これを二重構造モデルで考えたらどうなるでしょうか。
     すでにお話ししたことですが,日本列島には古くから南アジア系の縄文人が住んでいました。ところが,まず北九州地方に北アジア系の人たちが渡来し,やがて西日本に広く分布するようになりました。北アジア系の遺伝的影響はさらに本州,九州,四国の全体にわたって広がり,日本人や,おそらくは日本文化の二重構造性ができあがりました。
     ところが,北海道や沖縄には朝廷の勢力が及びにくく,また遺伝的にも本土とは隔離された状態が続きました。そこでこの地方には北アジア系の影響がほとんどなく,縄文系の人ぴとがそのまま近代化 (小進化) して今日に至ったと思われます。つまりアイヌと沖縄の人びとは「縄文人を祖先とし,しかも渡来人の影響をほとんど受けていない」という共通性によって,地理的には離れていても,互いの類似性を維持してきたことになります。」
     私はかなり長い間,比較アルタイ言語学を研究し,母国語たる日本語とアルタイ諸語 (トルコ系,モンゴル系,ツングース・満州語系言語) 及ぴ朝鮮語との比較研究によって日本語の起源を究明しようとしたが,日本語におけるオーストロネシア語的下層の究明なしには日本語の起源の問題は解決され得ないという考えに到達し (私よりずっと前にロシアの言語学者ポリワーノフは同じ結論に達していた),オーストロネシア言語学にも手を延ばし,その過程においてアイヌ語の比較言語学的研究にも力をそそぎ,アイヌ語がオーストロネシア諸語と密接な関係にあり,オーストロネシア語族に属する可能性があるという見解に近づくにいたった。
     この研究によって,縄文人の言語はアイヌ語に近く,その上に北アジアの言語──とくにツングース・満州語族の言語──が重なって両者の混交から日本語 (北アジア言語の担当者の政治的支配により,北アジア言語の文法が支配的地位を保つところの) が成立したと見るようになった。
     私の日本語成立の見方は人類学者埴原和郎氏の『日本人の起源』の立場に近いように私には思える。

      同上. pp.64,65.
     アイヌ語の研究において不滅の業績を残した金田一京助 (金田一春彦の父) は1937年 (本年,1993年より56年前に) 発表された「国語とアイヌ語との関係──チェンバリン説の再検討──」という論文 (金田一『アイヌ語研究』におさめてある。引用はそれから) のはじめに次のように述べる。
     「 国語とアイヌ語とは,系統上,如何なる関係に立つ言語であろうか。チェンバリン教授は,半世紀の昔に,これを無関係の言語であると断じて,はっきりとその論拠を提示されたのであるが,爾来幾多の学者が,幾度もこの問題を取扱いながら,曾てチェンバリン説を支持したものを聞かず,さりとてまたこれを論破した学説のあることを聞かないのである。然しながら,いつまでも,そのままに放置して居るべきものではなしそろそろその始末を附けてよかるべき時代に達しているのであろうかと思うので,聊か所見を開陳しておく次第である」 (p.363) 。
     金田一はチェンバレン説をかなりくわしく検討して
     「 両国語〔アイヌ語と日本語 村山〕は本源のちがう言語だったということに帰着せざるを得ないのである。この点,チェンバリン教授が半世紀前の断案は,今日に及んで,終に微塵も(うご)ぐところが無いのである」(p.377)
    という結論に達した。そして最後に次のような意見を述べている。
     「 実をいえば,アイヌ語は日本語と関係があってくれたら好いのである。若し同じ元から分かれた姉妹語ででもあってくれたら,この間に比較言語学が有望になって来,それに由って,分岐以前の日本語,即ち文献も金石文も遺らぬ悠久な太古日本の言語へ溯って行くことが出来て,アイヌ語の研究も,今あるより,より遥かに興味多いものとなって来る筈である。だが遺憾ながらその関係は,終に無いということに結着するのである。欲すると欲せざるとに係わらず,それが事実であるから,真理の前,また如何ともしがたいのである」 (p.377) 。
     もし金田一京助が1910年代に日本を訪れたロシアの言語学者,ポリワーノフのように日本語のオーストロネシア語的下層 (サブストレータム) に関心を寄せたならば,そしてまたアイヌ語とオーストロネシア語との比較研究に着手したならば,オーストロネシア語に由来するアイヌ語と日本語との共通点を数多く発見できたのではあるまいか。
     以下において,私はこれら両言語 (アイヌ語と日本語) の共通語彙の若干について私の考えを述べて見たい。
     また金田一京助が1937 年に,この論文を発表するより11年前,即ち1926年に LE MONDE ORIENTAL, Vol. XX に発表されたイェルドマン O. Gjerdman の論文 Word-parallels between Ainu and other languages (アイヌ語と他の諸言語との対応単語) を読破していたならば,これと異なった見解に到達していたかも知れない。
     イェルドマンはアイヌ語とオーストロネシア語との対応語彙を研究するにとどまったが,日本語のオーストロネシア語的サブストレータム (ポリワーノフはそれに深い注意をはらった。尤もそれを根本的に追究する時間が彼には無かった) を考慮に入れれば,イェルドマンの研究はアイヌ語と日本語との共通語彙に関する金田一の研究を大いに助けたはずで、ある。
     金田ーの上記論文の発表後の半世紀の間,金田一の考えを根本的に検討する作業は日本では,残念ながら,実行されなかったと思う。
     私が本書において述べることは金田一説の批判的検討の試みである。