Up 佐々木昌雄 作成: 2016-09-30
更新: 2019-10-23


文学"アイヌ" ──主題の閉塞により終焉

  • 1970
    • 「破滅の倫理 一「邪宗門」論素描」,『亜鉛』, 第7号, 1970.6
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.54-60
    • 「閉塞からのエスケープ─尾形亀之助・石川善助論の一視角」, 『亜鉛』, 第9 号, 1970.12
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.61-78

  • 1971
    • 「映画「アイヌの結婚式」にふれた朝日新聞と太田竜」, 『亜鉛』, 第12号, 1971.9
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.105-123

  • 1972
    • 「この〈日本〉に〈異族〉として」, 『北方文芸』, 1972.2
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.147-162

  • 1973
    • 「「アイヌ」なる状況」(1), 『亜鉛』, 第19号, 1973.3
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.124-129
    • 「「アイヌ」なる状況」(2), 『亜鉛』, 第20号, 1973.6
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.129-144
    • 「「保護」という名の支配」, 『朝日新聞』, 1973.5.30 (夕刊)
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.189-192
    • 「チャランケ──本多勝一の説教について」, 『アヌタリアイヌ』, 創刊号, 1973.6.1
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.193-199
    • 「鳩沢佐美夫の内景」(『コタンに死す』解説), in『コタンに死す』新人物往来社 1973.8.1
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.219-233
    • 「『アヌタリアイヌ』われら人間」,『ろばのみみ』, 第2号, 1973.9
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.234-240
    • 『アヌタリアイヌ』創刊号〈編集後記〉 1973.6.1
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.200,201
    • 『アヌタリアイヌ』2号〈編集後記〉1973.7.1
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.202,203
    • 『アヌタリアイヌ』3号〈編集後記〉 1973.9.1
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.203,204
    • 『アヌタリアイヌ』 4号〈編集後記〉 1973.10.1
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.204,205

    1974
    • 「〈シャモ〉が〈シャモ〉である限り」,『ろばのみみ』, 第74号, 1974.4
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.241-243
    • 「"シャモ" は "アイヌ" を描いた」, 『北方文芸』, 1974.3
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.163-188
    • 「〈アイヌ学〉者の発想と論理──百年間、見られてきた側から」『アヌタリアイヌ』8号, 1974.2.20
        『北方の古代文化』, 毎日新聞社, 1974.7, pp.
        『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.206-218

    アヌタリアイヌ


      Winchester, Mark (2009), pp.14,15
     佐々木昌雄 (1943年〜) は北海道美唄市出身で、東北大学大学院文学研究科日本思想史専攻に入り,飛鳥・奈良時代の日本古代天皇制下の知識階層の思想と文芸を研究し、修了後に仙台の高校と予備校の国語講師を勤めていた。
    他方では、尾形亀一郎や石川善助のような現代詩人や同時代に世代的な支持を集めていた高橋和巳や吉本隆明を好んで読み、決して直接的に「アイヌ」に触れているわけではないが、自らの生立ちと親族をモチーフとしたきわめて独自の文体を整えた詩集を1968年に、同じ大学院で出会った出版人の会社から出している。
     仙台の同人誌に「アイヌ」を暗示するような詩を書きつづけ、やがて1971年から佐々木は時評のような文体で彼が「状況としての『アイヌ』」、あるいは「『アイヌ』なる状況」と呼ぶようになったものを探究し、記述し始める。
    一方、これは、先ほど述べた転換期のアイヌ史研究にとっての大きな動機でもあったが、1968年の「北海道百年」祝典キャンベーンを始めとして、開拓史観やそれに対する批判の燃料としての「アイヌ」というものが、様々な形で社会的に再価値化される時期だった。
     同時期の1971年8月1日に平取町の文芸同人誌だった『日高文芸』の中心となった作家の鳩沢佐美夫が亡くなり、彼の作品を纏め紹介する遺稿集を作ることを目的として何名かの地元の人たちが集った。
    東京の新人往来社という出版者が関わるようになってからローカルな企画より一層大きくなり、特に1970年11月に『日高文芸』に掲載された「対談アイヌ」という鳩沢の文章が、開拓祝祭に溢れた時代に対する「アイヌ」による告発や抵抗として見出され、組み込まれていたのである。
     「対談アイヌ」は『若きアイヌの魂ー鳩沢佐美夫』(1972年) の中に収まり、佐々木がいつ頃から鳩沢の作品を読み始めたかが不明だが、後に1973年に同じ出版社から出版される『コタンに死す──鳩沢佐美夫作品集』に、佐々木は解説文を書いている。
    そして、すでに「アイヌ」を取り上げた時評文を道内外に発表している佐々木は、おそらく出版社などからの紹介で、同年から鳩沢の影響下にあった何人かの若者と、『アヌタリアイヌ われら人間』という新聞の編集責任者となる。