Up 砂澤チニタ 作成: 2016-07-01
更新: 2016-12-31



  • イラスト
      Nevsky, Nikolai『アイヌ・フォークロア』, 北海道出版企画センター, 1991.

  • 著作
    • シリーズ「アイヌの誤謬」, 北方ジャーナル
        2009-04
        似非「アイヌ文化」の展示を憂う
        2009-05
        旭川市博物館の怪展示
        2009-06
        カナダUBC人類学博物館と旭川市博物館の「質的格差」
        2009-07
        個を喪失し「アイヌありき」で生きる矛盾と悲劇
        2009-08
        音威子府のエコミュージアムと旭川の仰天アイヌミュージアム
        2009-10
        縁の地、音威子府村でビッキの風に吹かれて
        2009-11
        ゆかりの地でイベントを終え、いまビッキとアイヌを思う
        2009-12
        解かれた呪縛。20年を経て“ゆかりの地”に還ったビッキ
        2010-01
        差別の事実を利権に変えるエセアイヌと〝良き理解者たち〟の不毛
        2010-02
        「アイヌ民族」への施策と助成金こそ「事業仕分け」の対象とするべきだ
        2010-03
        利権の“まどろみ”から目を覚ませ 山積み状態の「アイヌ民族」問題
        2010-04
        ある日“血”に目覚めた「にわかアイヌ」が跋扈する
        2010-05
        “間違いだらけのアイヌ展示”を続ける旭川市博物館の深い「罪」
        2010-08
        若き日の漂流──。遭遇した“アイヌがアイヌを脅す不毛”
        2010-09
        “アイヌ”で脅された私に潜んでいた「差別の構図」
        2010-10
        父・ビッキへの憧憬と反発 終わらない「自分探しの旅」
        2010-11
        “アイヌ幻想”を拡大再生産していたウタリ協会の「不毛」
        2010-12
        悪名高い「食の祭典」でも拡大再生産された“アイヌ幻想”
        2011-03
        「チニタ」という名前に呪われ翻弄され続けた私
        2011-04
        「アイヌ語」の軽薄な濫用や利権化の動きの意味とは?


      北方ジャーナル 2009-07
    個を喪失し「アイヌありき」で生きる矛盾と悲劇
    私達アイヌ系の者は、現在もチセに暮らしながら狩猟や山菜取りをして暮らしているわけではない。
    普通に車に乗って CO2 を排出しまくり、普通に一軒家やマンションに暮らし、ただただ一般的な暮らしをしているに過ぎないのに、その現実を捻じ曲げ、自分たちの自己陶酔や装いのために「アイヌ民族」を“エコ民族”と持ち上げる者が後を絶たない。

    さらには、そのように持ち上げられたアイヌ系の者が、温泉に浸かったサルの如く、威厳もプライドもかなぐり捨てて、神輿担ぎに乗せられている。
    つまり、現在を自立して生きている「アイヌ」など、学者、研究者、学芸員には必要ないのである。
    欲しいのは差別に喘ぎながら生き、細々と昔から文化を守っている「アイヌ」なのである。
    そのような扱いは、実際には差別を生み、文化の形骸化に目隠しをしている姿を物語るものでしかない。

    さらに情けないのはそんな研究者や博物館やマスコミに乗じて、表面に出る時だけアイヌ衣装をまとい、根拠のない特権をふりかざしているアイヌ系の者の姿である。
    私は昔から「アイヌはやったもん勝ち」という言葉を引用してきた。
    「個」ではなく、まず「アイヌ」ありきで生きているアイヌ系の者をそう呼んできた。
    差別やアイヌ文化の保存を叫んでマスコミから注目され、"タダの人"が「アイヌの人」として持ち上げられ、勘違いの上塗りを繰り返している。

    そして、いつしか「アイヌ」であることが職業となり、特権の理由となり、自らの手で新たな差別を造り上げてしまっている。

    このような安易で短絡的な生き方は若年層にも及び、自分の祖父、祖母への差別をあたかも自分のことであるかのように訴える者、半狂乱でラップを叫び、踊り狂う者、突然「民族」に目覚めてアイヌミュージシャンとしてうごめく者、アイヌ文様をモチーフとするデザイナーなどと、もう何でもありの、まさに「アイヌはやったもん勝ち」の世界が作られてしまった。

    研究者やマスコミが「アイヌ」であることだけで、個人の資質、意識、思想などを見極めることもなく持ち上げてくれるのだから、こんな楽な生き方はなく、自称「アイヌ」が再生産されていくのも頷けるというものだ。

    一体何を根拠に「アイヌ」と認定されるのか、誰がそれを認定するのか、自称すれば誰でも「アイヌ」になれてしまうものなのかなど曖昧模糊としたままである。
    そのどさくさに紛れて「借り得」の制度(小生注:アイヌ修学資金制度)を利用しようとする者を増え続けさせたことについて、行政は責任をとるべきである。

    勝手な思い込みによって「アイヌ民族」の誇りを謳う者がいるが、それは大抵の場合劣等感の裏返しのように思われる。
    私は「民族の誇り」など微塵も必要としていない。

    声を出さない、あるいは声を出したくもない自立したアイヌ系の者の生き方が無視されながら「アイヌ」「アイヌ民族」が作られていると言う現実には大きな矛盾を感じる。