Up 熊送り 作成: 2016-09-25
更新: 2016-09-25


    pp.173, 174
     秋になって、五月の大洪水のときに夫が山でっかまえてきた子グマ三頭が大きくなったので,クマ送りをしようということになりました。
     旭川の近文、新十津川の泥川、深川の一已、日高のあちこちにいる親せきに使いを出し,一カ月前から濁り酒を高きが四尺(約百二十センチ)もある大きなコンカイ(酒おけ)に二つも三つも作って準備を始めました。このころ、濁り酒は玄米で作りました。玄米の濁り酒は,甘くて飲みやすいうえ、すぐに酔えて、とてもおいしいのです。
     クマ送りの前の晩は、神の国へ帰るクマに背負わせるエベレシト (クマの団子) を作ります。
    一頭に二十五個持たせるので、三頭分を作るのに朝までかかりました。
     神の国に返すクマは、まず花矢で射ってから最後に狩りに使う本物の矢 (昔は,狩りの時には矢尻に毒を塗った) を心臓めがけて射ち、それから丸太二本で首を絞めて殺します。その間,若い女たちがぐるりを囲んで、「ホーイ、ホイッ」「ホーイ ヒィッ」「ホーイ ウェ」「へーイ ワァッ」などのかけ声に合わせてにぎやかにウポポ (輪踊り) します。
     クマ送りの儀式は、死んだクマから頭の骨を取り出し、肉も脳みそもきれいに取って骨ばかりにし、それをイナウ (ご幣) で飾ってイナウサン(祭壇) に祭って終わるのですが,頭を作るのに時間がかかり、出来上がるまで一週間も二週間もかかるのです。
     昔は、楽しみといったらクマ送りぐらいのものだったので、集まってきた人たちは、クマの頭が出来るまで、夜昼、食べたり飲んだりしながら、歌って踊って騒ぐのです。
     家の近い人は帰りますが、遠くから来た人は泊まり込むので、クマ送りをする家の女は、一日中、ごはんの仕度をしたり、後片付けをしたり、眠るひまもなく働かなくてはなりません。
    夫の母と妹たちは、客と一緒に歌ったり、踊ってばかり。少しも手伝ってくれないので、ほんとうに死ぬ目に遭いました。



    p.198
     子供たちもすっかり元気になり、養っていた子グマと一日中、楽しそうに遊んでいました。
    この子グマは、ほんとうにかしこくて、人聞の言うこともすることもなんでもわかるのです。
    政代と末子が棒を持って「ブランコ、ブランコ」と言うと走ってきて、左右をちゃんと見て、棒の真ん中をつかんでぶらさがるのです。


    pp.200, 201
     夫は大ケガをするし、猟もない、子供に教育を受けさせたい、と、私たちは四月を前に旭に帰ることに決めました。養っていた子グマはすっかり大きくなり、連れて帰れないので、旭川の親せきや奈井江の町の人を呼んでクマ送りをすることにしました。この子グマは、とて利口で、人間の言うことすることはなんでもわかるだけでなく、自分も人間の子供だ、と思っていたようで、することなすこと人間の子供そのままなのです。
     子供たちと歩く時は、後ろ足二本で立って並んで歩きますし、ソリ遊びの時も、ソリの後ろに乗り込んで、両手で前の子供につかまっています。外遊びから帰ってきた子供たちが「寒い寒い」と炉の火に手をかざしてあたっていると、自分も間に座って前足をかざしてあたるのです。こうして座ると、頭の高さも子供たちと同じぐらいで、幅だけが広いのです。
     私も子供たちのひとりのように思い、子供たちも、とてもかわいがっていたので、クマ送りで送った時は悲しくて悲しくて泣いてばかり。肉も食べる気になれませんでした。この子グマのことは、いまも忘れられません。



    pp.262-264
     一カ月半ほどして子グマも大きくなったので、旭川の家へ連れて帰りました。昼間は家の中を静かに歩き回っていてよいのですが、夜になると、一緒に寝ないと泣いて泣いてうるさくてたまりません。一緒に寝ると、ろくに眠れず、ほとほと疲れました。
     嫁が「お母さんがいなければ泣かない」 と言うので、子グマは嫁と母に預け、また芦別の山に入りました。子グマを育てた小屋で体を休めていると、ある夜、登別温泉の森さんが訪ねてきた夢を見、その翌日、大グマを捕り、帰りました。
     夏になって、息子の清が兵隊に取られ、嫁が出て行きました。孫の代恵子の守りをしなくてはならないので、子グマを外につなぐと大声で「抱っこしてくれ」と泣きわめきます。もう、抱っこ出来ないほど大きくなっているのに。
     仕方なく抱くと、抱いているうちは喜んで甘えていますが、おろそうとすると怒って、かじったりひっかいたり恐ろしいのです。
    孫の守りとクマの守りで疲れ果て、体の具合も悪くなったので、登別温泉の森さんにあげました。
     このころは戦争で、人間でもまともな物は食べられなくなっていました。「おなかをすかせていないか」と心配で、二カ月ほどたってから登別温泉に子グマを見に行きました。
     子グマはすっかり大きくなり、大木の下につながれておおぜいの観光客に固まれていました。顔を見せたら悪い、とカサで顔をかくして近づいたのに、においでわかつて二本足で立ち、私の方を向いて大声で泣くのです。観光客は、みな驚いて逃げ、私も、森きんの家に逃げました。
     森さんの家には温泉旅館からもらった魚、肉、ごはんが大きなバケツにいっぱいあって、安心しました。「クマがいるので人が寄る」と喜んでエサを出してくれるということでした。森さんも、自分の子のようにかわいがり、毎日、山道を散歩させてくれていました。
     二十年の正月早々、森さんから「クマ送りをするから来てくれないか」と電報が来ました。戦争が激しくなって、いつ空襲があるかわからないので、危険だから殺すように言われたのでした。
     森さんは、悲しくて悲しくて、クマと一緒に山に入り、クマと抱き合って泣いたそうです。一度は、山の中に放してみたそうですがクマは走って帰ってきたそうです。もし、人聞のいない山奥に連れて行っても自分でエサを取れないから死ぬでしょう。
     このクマは、とてもかわいい顔をしていて、おなかがすくと後ろ足で立ち「ウェー」と鳴いて、前足を重ねて出してちょうだいをするのです。人間の言葉もよくわかり「ちょっと待て」と言うと、いつまでもちゃんと座って待っているのです。小さい時から養ったクマは、自分を人間だと思っているので、歯とツメを切れば、人間に害はしないのですが‥‥。
     かわいそうで、とても送るところなど見る気になれませんでしたし、それに、旭川でも空襲が心配されるようになって、クマ送りどころではなかったのです。夫も行きませんでした。だれが送ったのでしょう。