以下,砂沢クラ (1983) から,ユーカラに関する記述を引く:
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pp.105,106.
母は、弟と妹を死なせてからユーカラ (長編英雄叙事詩) をやるようになり、そのことでも村の人から悪く言われていました。
近文のアイヌの間では「女はユーカラをするもんでない」とか「女がユーカラをすると悪いことが起きる」と言われていたのです。
村で死人が出ると、身内の人たちが「ムイサシマット ユーカラクス アイヌライ (ムイサシマットがユーカラするから人が死ぬ)」と、村中に聞こえるような大声で泣き叫びながら家の周りを歩くのです。
ユーカラでもしなくては、夫をクマに殺され、二人の子供を伝染病で死なせたつらき、悲しきはまぎらすことが出来なかった、といまになると母の気持ちがよくわかります。
でも、当時は、ただ肩身の狭い思いをするばかりで、家に居つかず、おじやおばの家を泊まり歩いていたのでした。
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pp.120-122.
精華女学校が分教室を聞いた日曜学校は、アイヌ学校のすぐ向かいにあって、金成マツさん(ユーカラ伝承者、キリスト教聖公会伝道師一八七五〜一九六一)が先生をしていました。
日曜学校の建物は普通の和人の一階建ての家で、玄関圭入ると廊下をはさんで右手に八畳間の和室の教室が二つ、左手に金成さんと養女の幸恵さん (「アイヌ神話集」の著者、知里真志保の姉、一九O三〜一九二二) が住んでいた六畳間と台所、フロがありました。
金成さんは幌別のアイヌで、函館の学校で学問をし、日高で日曜学校の先生をしてから近文に来たのです。
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私の母も、よく金成さんの部屋を訪ねて、金成さんとユーカラを楽しんでいました。
私は金成さんがユーカラをする声をきいたことはありませんが、幌別のユーカラも日高のユーカラもたくさん知っていて、とても上手だったそうです。
近文のアイヌは女がユーカラをするのをいやがりましたが、よその地方ではそんなことはなかったようです。
伏古から近文に嫁に来ていたキナおばさん (杉村キナラブック) も、母と一緒にユーカラを楽しんでいましたし、名寄からは大貫ヤンパヌさん、日高からは平賀サダモさんが、よく母のユーカラを聞きに来ていました。
サダモおばさんなど、母の家に何日も泊まって、母と一緒に農家の出面に行き、二人でイモの草取りをしながらユーカラをしていたほどです。
母のユーカラは、よその土地のアイヌがわざわざ聞きに来るだけあって、声も大きく太く、言葉も面白いのでした。
母が部落の人にどんなに悪く言われでも死ぬまでユーカラをやめなかったのは,金成さんや金成さんのところに来ていた金田一(京助)先生の励ましがあったからだ、と思います。
金田一先生が、一度、母のユーカラを録音していったのですが、どういうわけか機械に入っていなかったそうです。
もし、母のユーカラが残っていたら、いまの人にも開いてもらえるのに。
私も聞きたい、と思います。
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pp.123-125
幸恵さんは小さい時からユーカラも上手にしました。
私が初めて幸恵さんがユーカラをするところを見たのは、幸恵さんが小学校の四年生ぐらいの時でした。
金成さんのお母さんのモナシノウクフチが遊びに来ていて、母がフチに「ユーカラを聞かせて」と何度も頼んだのですが、フチは恥ずかしがってなかなか始めません。
すると、幸恵さんが「じゃあ、私がする」と言って、座布団をまくらにしてあおむけに寝てユーカラを始めました。
フチが「起きてしなさい」と言って、幸恵さんを起こしていた姿がいまも目に浮かびます。
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幸恵さんは女学校に通っているころ、名寄の村井さんというアイヌの青年と恋仲になりました。
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村井さんとの結婚話がすすまないうちに、幸恵さんは金田一先生に頼まれて、ユーカラの本を出すために東京へ行きました。
幸恵さんと小きい時から仲よくしていた妹のカネの話では、幸恵さんは「いやだ」と泣いていたそうです。
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p.137
私の夫はユーカラ (長編英雄叙事詩) やトゥイタック (散文物語) に名高いオタスツウンクル (オタスツ人) の子孫でした。
オタスツウンクルは、大昔、オタスツ (小樽付近) に住んでいた心のよい、霊力を持つ人たちで、よその土地で変わった事が起きて困っていると訪ねて行ってよいように教えたり助けたので、その話がユーカラやトゥイタック に語られているのです。
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pp.202,203.
夫は酔ってきげんがよくなると、伏古コタンにいた時のようにシノッチヤ (叙情曲調) をしました。
よく響く、太い、いい声で「こうして、みなが集まり、楽しく酒を飲んでいる。とてもうれしい」というようなことをユーカラ(長編英雄叙事詩)に使われている古いアイヌ語で節を付けて言うのです。
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pp.297-299
私たちが芦別の川岸に住むようになってからも、旭川の川村の兄 (カ子トアイヌ) は、いつも私たちのことを気にかけ、何かあるたびに「来ないか」と声をかけてくれました。
川村の兄や旭川の親せきと一緒に神居古漬や勇駒別温泉 (現在の旭岳温泉)、層雲峡、天人峡、白金温泉などの観光地へ招かれて行き、カムイノミ (神への祈り) やウポポ (輪踊り) をするのです。
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私たちが川岸に暮らすようになってから、芦別でも冬まつりをするようになり、川村の兄が親せきを連れてきて、町の広場でクマ送りをするようになりました。
四、五年は続いた、と思います。
クマ送りでは夫が一切の指図をし、カムイノミもやりました。
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クマ送りでは、夫も息子も、私が作ったアイヌのコソンテ(立派な着物)や陣羽織を着ました。
とてもきれいに出来ていたので、息子など何人もの人から「ちょっと貸せ」「おれにも着させろ」と言われて、着たり脱いだりしていました。
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pp.303-305.
昭和三十九年、旭川で「北海道アイヌ祭り」が開かれました。
近文のアイヌだけでなく、日高、十勝、釧路、白老、新十津川などほうぽうから百何十人というウタリが集まり、何回も泊まって歌ったり踊ったり。とてもにぎやかでした。
私の夫はクマ送りの指図をし、カムイノミ (神への祈り) もしました。
この時のクマ送りは、クマを神の国へ送らずマネだけでした。
夫のしたシノッチャ (叙情曲調) は放送されたそうです。
白老からは幼なじみのコヨちゃんが夫の員沢藤蔵さんと来ていて、夫は貝沢さんとウコヤイイタッカラ (自らの身の上話) をし合いました。
ウコヤイイタッカラは、ウコシノッチャとも言って、自分の祖先の話から始めて身の上を語り、「こうして会えてうれしい」といったことをアイヌの古い言葉で節をつけ言い合うのです。
貝沢さんは日高の雄弁家として評判の高かった人なので、雄弁家の二人がオンカミ (手のひらを上に向け、上下させるあいきつ) し合いながらよい声でシノッチャし合う様子は堂々としてとても立派でした。
クマ送りの次の日は、全道各地のウタリがつぎつぎと舞台にあがってめいめいに土地の歌や踊りを演じました。
日高、十勝、釧路の人は声もよく、踊りも上手でほんとうに感心しました。
旭川は、早くから第七師団が入って町になってしまったので、近文のアイヌは、よその土地のアイヌのように、みんなで集まって歌ったり踊ったりすることもしなくなり下手になった、と思います。
よそでは、何町歩という広い畑を持ち、歌いながら仕事をしているのです。
日高の沙流の人のヤイサマは、声がよいだけでなく節もよく曲がり、ほんとうに感心しました。
私は、娘時代にヤイサマを学校のオルガンで覚えたので、うまく節を曲げられないのです。
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アイヌ祭りには金田一 (京助) 先生も来ていて、祭りの間、いつも夫のそばに座って、いろいろお話していました。
祭りが終わって先生が帰るというので、夫と駅まで見送りに行きました。
先生は汽車の窓から身を乗り出すようにして、泣きながら夫の手を両手でしっかり握り「東京へ連れて帰りたい」と言って、汽車が動き出しても手を離さないのです。
この時、先生は八十四歳になっていた、と思います。
これが先生とお会いした最後になりました。
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p.308.
このころから、夫は少しずつ私にユーカラを教えてくれるようになりました。
昔は、母のユーカラを何気なく口ずさんでいただけで怒ったのに。
雨の日や冬の夜に「よく覚えておけよ」と言って、節をつけずに語ってくれるのです。
忘れないようにしっかり頭の中に入れておき、夫のいない時にノートに書き留めたりヤプの中で練習しました。
私が夫から習ったユーカラは「アトゥイヤコタンで闘うポイヤウンペ」「炉のアクをつけて遊んで育ったポイヤウンペ」「ルロアイカムイ (天に棲む鬼の神)」「シネトミ (八カ国との戦いの一節)」です。
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同上, pp.330,331
白老に行った次の年 (昭和四十五年) の夏、川村の兄 (カ子トアイヌ) たちと白金温泉 (上川管内美瑛町) に行った時のことです。
兄に「九州から四百人の客が来ている。ユーカラをしてくれ」と言われました。
二年前に外国人学者の前でユーカラを演じた時は節なしでしたし、前の年に森竹竹市さんに頼まれてポロトコタンで演じた時は、チセ (家) の中で二、三十人の客に囲まれてやったのです。
こんどは、外に火をたいて、何百人の客に取り固まれてやる、と一言うのです。
「出来ない。いやだ」と断ると、兄は「おまえは、おまえの母親がここまで伝えてきたユーカラを受け継がないのか」と怒ります。
仕方がないので、母も演じ、夫からも教えられた「アトゥイヤコタンで戦うポイヤウンペ」を演じました。
たき火が煙いやら、恥ずかしいやら。
幸い夜で、客の顔が見えないので、たき火の火ばかり見ながら夢中で演じ、やっと終わると、お客さんが私を取り巻き、つぎつぎと手を取り、「ありがとう、ありがとう」と喜んでくれました。
お客さんは喜んでくれましたが、一緒に行ったアイヌはあまり喜んで聞かないのです。
「名寄のヤンパヌおばさんは声がよかった」などと言うのです。
ユーカラは声だけを聞くのでなく、歌われている内容が大事なのです。
ユーカラの言葉がわからない人が多くなって、声だけ聞くようになった、と思います。
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- 引用文献
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
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