- 「ルベシベ (累標)」──「ru-pesh-pe : 道が・それに沿って下る・もの」──は,アイヌの山越え道を知る手掛かりになる地名である。
山越え道は,沢をつたって上り,峠を越え,沢をつたって下るというものになるからである。
特に,「pesh」の「下る」は,峠から見た「下る」の意味になる。
- 旧地図,現地踏査,聞き取りを方法にして,ルベシベを調査:
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pp.235,236
〔荒井源次郎翁の話〕
「雨竜は熊の多い処で、上川アイヌのイウォロ (縄張り) のようなものだった。
但し鹿は余りいないので、鹿狩りには北見の方に行ったものである。
私の親爺の荒井ケトンチナイと友達の今井ユルサノさんが熊狩りのウトゥラピリカ (好同行者) で、まだ子供だった私も時々連れて行かれました。
雨竜に行くには江丹別を溯って行きます。
上って行くと川が二股になっていて、狩りの時には右股を上り、魚や山菜を取りに行く時には左股を上ったのでした。
マタルークシベツ [mata-ru-kush-pet : 冬・道・通っている・川] といったのは、狩りに行った時の右股だったと思います。
冬猟だと、雪が来る前に江丹別から山越えして雨竜に入り、雪が積もらない前に然るべき処に椴松の葉で小屋掛けをして根拠地を作ることから始めた。
それから幌加内、添牛内、古丹別等の広い土地で狩りをした。
何しろ長い間なので食料を持って行くわけに行かない。
塩等を少し持って行き、熊が捕れる迄は小動物を捕えて食べ、山菜をとって食べたりしていたものでした」
雨竜川の上中流が,アイヌ時代には無人の境であったことは松浦武四郎も書いている。
だが,その川筋の山際には,ずらっとルベシベ等の交通路地名がある。
誰が,何の目的で山越えしたかと考えていたが,荒井さんから,上川人は,熊狩り,鱒捕り,山菜の採取に山越えしていたことが分かった。
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pp.323,324
鵡川と沙流川は共に道南の大川であるが、北の山から流れ出し、等間隔で並行して南流している。
双生児みたいな川で、土地の古老によると、沙流川が男でシシリ・ムカ、鵡川は女でポン・ムカ (小・ムカ) と呼ばれたのだという。
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[鵡川の累標──磐木寅三さんの話]
「このルベシベを上って長知内に下るのが昔からの道筋で、沙流に行くには誰でもそこを通った。
自分も沙流で仕事 (造材らしい) をしていたが、そこを通ってから沙流川を下った。
川筋を歩いて行ったのだが、峠の処は皆が歩くので道のようになっていました。
馬でも楽に歩けました。
長知内からここ迄は、一時間足らず、三十分ぐらいでも来れた」
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松浦武四郎 (1859) の該当箇所に,上の道 (朱色) を書き込むと:
サル・モンベツ : 松浦武四郎の調査
「長知内からここ迄は、一時間足らず、三十分ぐらいでも来れた」は,アイヌの歩きがかなりの早足であることを示す。
ただし「三十分」となると,マラソン選手並のスピードで沢伝いの山越えをやっていることになるが ???
Google Map から:
地図左端から右端まで 9.3 km
ちなみに参謀本部 (1919) では,破線で山越え道が記されている:
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