Up 民族派"アイヌ" として 作成: 2017-03-30
更新: 2017-03-30


      新谷行「橋根直彦、獄中からのベウタンケ」
    『増補 アイヌ民族抵抗史』, 三一書房, 1977, pp.288-298.
    pp.288-290.
     「ヤイユーカラ・アイヌ民族学会」(自ら行動するアイヌ民族学会) は、アイヌ解放同盟、北方民族研究所による学界糾弾の直後設立されたもので、アイヌ成田得平を会長とし、主として山本多助翁の継承するアイヌ民族の伝統文化を発展させようとするものである。
    現在までのところ、山本翁のつぎのようなものを刊行している。
     『言葉の霊イタクカシカムイ』(昭和四十八年二月)、
     『どっこいアイヌは生きている』(昭和四十八年七月)、
     『第一号日本列島一周旧地名追跡調査』(昭和四十八年十一月)、
     『第二号日本列島内オノコロ島見聞記』(昭和四十八年十一月)、
     『アイヌ語小辞典』(昭和五十一年五月)、
     『九州の旧地名と各地方の見聞記』(昭和五十一年五月)
    などである。
     山本翁のめざしているものは、彼が若いときから樺太その他の地方を歩き、身につけたアイヌのあらゆる伝統文化を消させることのないように、若い者にそれを受け継がせようとするところにあるといっていいだろう。 したがって、その範囲はアイヌ語をはじめとしてユーカラ、各地の地名の由来、それに古典舞踊などきわめて広い。 特にその地名解は、本州の南端九州まで脚をのばし、そこの旧地名にアイヌ語で解決できるものまでも探し求めている。 おそらく、これによって本州の南端までいわばアイヌ、あるいはそれに近い文化圏が古く存在していたことが推測することができるだろう。,
     山本多助翁のこうした活動を現在、「ヤイユーカラ・アイヌ民族語会」が充分に生かしきっているかどうかは多少疑問も残るが、アイヌ自身の手によるこうした活動は充分に評価されてよい。


      山本多助「大中国見聞記」
    『北海道アイヌ中国訪問団記』,1974, pp.56-60.
    pp.56,57
    明治政府は、広大なアイヌの国土を侵略して、アイヌ民族の生きる権利もあらばこそ、人間としての権利一切を掠奪し続けてきたのである。
    その上に、男子は一人残らずドレイとして酷使する、女性は悪鬼共のオモチャとしてもてあそんだのである。
    悪業非道のかぎりをつくした者のその子孫共は現在では文化国家日本、経済大国日本などとほざきくさる。
    日本の文化国家の原点は古い時代から文化も文字も中国からの借用品なのである。
    経済大国というならば、その財源は日本の庶民の血とアセをしぼり取ったか、他国外国から掠奪したか搾取したかにほかならないのである。
    現在の首相は田中角栄なのである。
    彼は東北エゾの直系なのである。
    文化国家経済国家の首相の角栄は、まだかつてアイヌ民族をまねいて、ただの一度も東京見物もさせたことがないのである。
    しかるに世界の大国中国の民衆は、アイヌを日本国の少数民族として認めた上、一切の諸経費を中国で持ってくれ、その上に国賓並の待遇をしてくれて、いたれりつくせりの見学をさせてもらったのである。
    世界広しといえどもアイヌ民族を招待したのは、中国の大衆をもって第一号なのである。
    従って、中国に対して我々は深く御礼申し上げます。


    山本多助は,イデオロギー者タイプの<自足する者>である。
    自省「自分は何もわかっちゃいねえ」とは無縁の者である。

    この自足は,幼児のものである。
    翻って,山本多助は,自足を壊されることなくここまで来てしまった者である。
    幼稚な物言い (ほとんど酔っ払いの言) であることが,自分ではわからない。