Up 「結城庄司」批判 作成: 2016-11-11
更新: 2017-02-21


  • 佐々木昌雄「「アイヌ」なる状況」(2), 『亜鉛』, 第19号, 1973.6
      『幻視する<アイヌ>』, 草風館, 2008, pp.129-144.
     
    pp.135-138
     「アイヌ」なる者たちに潜む〈日本〉が、顕現しているのは、別に今に始まったことではない。 それは遠く遡上る。 「シャモ」との交渉での「アイヌ」の敗北史を、意識の面でみても、やはり「シャモ」の意識の侵蝕史である。 「シャモ」の侵進によって、「アイヌ」の日々の生活の形が覆えされれば、どうしてそれまでの意識がそのまま保たれょうか。 たとえ初めの数世代のうちは殆どを保ち持っていたとしても、次に来る数世代は殆どを放棄し、放棄させられてしまうだろう。
     主要な経済生活手段である狩猟・漁労・採集のための獲物の場が強奪され、その挙句に強奪者たちの奴婢の如き徒輩へと落転させられてしまえば、かつての「アイヌ」の共同的な意識は、必ず変容へ向かわざるをえない。 そして、その共同的な意識を支えていた基盤である共同体が、自ら完結していた紐帯を絶たれて崩壊してしまったとき、かつての「アイヌ」たちは「シャモ」から与えられた──「シャモ」との対の関係での──意識を受け容れることになる。 そして今「アイヌ」であることを強いられている者たちも、「シャモ」との対関係で決定される意識からほとんど自由でない。
     例えば、最も声高に叫んでいる者の一人はかつての「アイヌ」を非常に美化する。
        北海道、神の思召すところアイヌは、大自然がもたらす宝の山でいっぱいだった。 そして、自然にさからわず自然を愛し心はおおらかで、自然が人間に与えるもの総てが神々の恵みと考え、──生きるもの総てが神々の使者と考え、(中略) 春夏秋冬の産物は上下の差なく総て平等に分け、それを平和と考え、──貧しき者あればそれは心だと考え、(中略) アイヌ(人間) 一同にまた喜びをわかちあい、何千年の昔より平和を誓い、幾千年時が過ぎようと平和の姿は変らずと信じ、未来の大地に向って旅にたち、アイヌ(人間) の求めるものは永遠に変らじと心から神々に祈りをささげるのであった。
    (結城庄司「ウタリに寄せる──自然主義者アイヌの道」 『コタンの痕跡』所収)
     かつての「アイヌ」を「自然主義者」と枠決めするこの筆者は、こんなふうに描いているのだが、いささか美文の筆の走りすぎであろう。 あたかも桃源郷を想い描いたのかと思われる程の、この描写が全くの虚構・捏造、だとは言わない。 しかし、いかにも誇張である。
     かつての「アイヌ」は「何千年の昔」から生き存え、「幾千年」も同じ生活形態を保っていたのか? 現在を起点として「何千年」か遡上ってみても、所謂擦文文化以前へ到達してしまう。 そして、何よりも誇張であるのは、かつての「アイヌ」をあまりにも「平和」に近づけすぎていることである。 例えば、ユーカラに伝わる各地方集団同士の争闘、あるいはトパットミという語などもあるように、略奪もあったのだし、「アイヌ」同士の血生臭い争いと闘いは繰り返されたのである。 また、かつての「アイヌ」を「平等」に近づけすぎてもいる。 かつての「アイヌ」共同体に階層は厳然と存在していたのであり、その例証は枚挙にいとまがないが、ここでは次のような文を引用しておこう。
        このような人文神謡における人格神の観念が、アイヌ社会に発生するためには、集団社会のなかで階級の分化が生じてきて、支配者と被支配者との社会区分が行なわれたことが考えられる。 そして、そのような社会の成員に対して強い人間的自覚が必然的に要請されなけれはならなかったのであろう。
    (知里真志保「神謡とその背景」『ユーカラ鑑賞』所収)
     かつての「アイヌ」を美化する結城庄司の捉えかたは、同時に「シャモ」を徹底的に極悪の徒として捉えることになる。
       人間が人間を嫌い憎しみあい、物を奪いあい、大地に呪いの血を流し、幾千年の未来に生きようとしないで、また自然を神とも思わないで、それのみか勢力を創るために神を騙しいつわり、勢力あるいは権力の象徴に祭りあげ、淳朴無垢な大衆を寓拝させ、戦にかりたて勝利者は敗者を差別し、勢力のもとに人間が人間をしばり、自然の神々にさからうように山野に切り首をさらし、暴力によって忍従させ、その事を日常の茶飯事として物欲に目を光らす一群が南より侵入してきたのであった。
    (出典は前と同じ)
     あまりに単純な、あまりに粗末な把えかたである。 このような前提に立てば、「アイヌ」と「シャモ」との交渉史の理解は、幼稚な善玉悪玉史観でもってすれば事足りるのだ。 こういう歴史認識に、前に述べた等号 [祖先の「アイヌ」=子孫の「アイヌ」=私] に身体的形質以外のものを付与する発想が加算されると──末裔は祖先の言動の一切に責任を負わねばならないという発想が加算されると──結城庄司は自らの絶対優位を信じて、「シャモ」なる者たちへの一方的な断罪を高言し、贈罪を要求するに至る。
        和人側が残虐行為でつづる、アイヌ歴史に対し責任あると痛感するのであれば、現実闘争姿勢の中で "アイヌに自然を返し、もどすべきである"。 シャモは自分達の手で、その運動を興し、何百年のアイヌ征(ママ)復への罪滅ぼしをすべきであり、日本社会全体がなすべき道である。 現在のあらゆるアイヌ問題に、過去、現在、未来と関係関与することが、シャモの謝罪の道であり(以下略)
    (結城庄司「アイヌに自然を返せ」『図書新聞』昨年十月二十八日号所載)
     これは昨年八月の第二十六回の日本人類学会・民族学会連合大会で参加者に配布されたというアピールである。 結城庄司は「アイヌ解放同盟」と称する組織のリーダーらしいが、まず、自らが自らの発想の呪縛から解放される必要があろう。
     正義が常に自らに在ると信じ込んでいる者を説得するのは不可能に近いが、最低限のことは一言っておこう。 結城庄司の論理は、既に今まで私が述べてきたことで崩れているのだが、繰り返して言えば、「アイヌ」なる者が「シャモ」なる者よりも倫理的に優れているという根拠は無いことを、まず知れ。 十歩も百歩も譲って、仮りにかつての「アイヌ」がかつての「シャモ」より優れた倫理性を示しえていたとしても、今なおそうであるという根拠は無い。 たとえまた、かつても今も「シャモ」なる者たちの倫理が低劣であるとしても、かつても今も「アイヌ」が高い倫理を獲得していると何をもって断言できるであろうか。
     次に知れ、「アイヌ」の倫理が「シャモ」の倫理より優れているという言いかた自体が、あくまで相対の言いかたであるばかりか、倫理性で争いあうことが不毛であることを。 さらに知れ、結城庄司の言う「アイヌ」とは誰れか、それは〈日本〉が決めた「アイヌ」と同じであることを。 つまり、この〈日本〉という共同体の共同的な意識にからみつかれているということを。 だから、今「アイヌ」なる者一人々々が失っているものを回復することにはならないことを。