Up アイヌ終焉期 (明治〜昭和初期) 作成: 2020-02-16
更新: 2020-02-16


    『二風谷』「第3章 二風谷歴史年表」から抜き書き:
     
    1870 32戸,140人
    1880 バッタによるヒエ,アワの被害おびただしかった。
    <二風谷村の産物> アツシ,シイタケ,シカ (42頭),他熊(12頭)
    1885 13.9町 (36戸) ──1戸平均約4反耕作
    1892 二風谷小学校 (修業年限3年) 開校
    1893 貝沢ウエサナシ・貝沢ウトレントク,くるみ・桂材で盆や茶托を彫り,札幌で販売。 ──二風谷民芸品販売の初め。
    1895 松崎順吉,二風谷に18町余を購入し居を構え開墾を始める。──二風谷和人農業耕作定住の初め。
    1897 人口53戸, 157人 (内和人8戸, 38人)
    1898 畑流失。
    1899 旧土人保護法 (この年公布) により給与された土地52戸, 1戸平均 2.8町。
    松崎順吉,水田1反歩初めて試作。
    1904 松崎順吉,果樹植栽を始める。
    1910 人口67戸, 297人 (内和人19戸, 83人)
    1914 二風谷青年会,北海道長官より表彰。
    1916 二風谷小学校,旧土人保護法による小学校となり,修業年限4年となる (児童数42名)。
    1919 商店,松崎・鎌田2軒。
    1922 8/24〜25,沙流川二風谷附近で大氾濫,耕地流出。
    生活困窮者続出,造田計画頓挫し,男は造材人夫として,女は飯場の飯炊きとして出稼ぎに出る者多くなる。


      本多勝一 (1988), pp.79-81
     貝沢正 [1912-1992] が物心ついたころ、父方も母方も祖父母が元気だった。曽祖母も一人いた。 祖父は二人とも立派なヒゲを長くのばし、祖母と曽祖母は三人とも口のまわりに入れずみをしていて、みんながアイヌ語で話し、アイヌ文化を継承していた。
     ‥‥
    アイヌの民族文化を、祖父母たちはもはや孫に伝えることを断念し、むしろ避けていたのだ。 その象徴的あらわれは、ユーカラやウエペケレの名うての伝承者だったコタンピラ夫妻の態度である。 幼い孫に、アイヌ伝承文学どころかアイヌ語さえ教えず、むしろ反対に、シサム (日本人) の「おとぎばなし」を日本語できかせた。
     ‥‥
     そのような「日本化」(非アイヌ化) 方針で育てられた父・与治郎は、自分はもちろん息子の正にも、日本的価値観を「よいもの」として脱アイヌにつとめさせた。



    引用/参考文献
    • 二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
    • 本多勝一 (1988) :「「北海道アイヌ」こと貝沢正氏の昭和史」
      • 収載:本多勝一『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.75-94.