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飛鳥奈良平安期エミシの北海道遺跡
作成: 2025-03-07
更新: 2025-03-09
喜田 (1933), pp.401,402
‥‥ 奥羽北部地方と共通のものは、その分布範囲が渡島・後志・胆振等、西南部の地方にのみ限られて、その種類もいわゆる円筒土器、および亀ガ岡式土器の系統に属するもののみであるらしい。‥‥‥
中にも特にその函館市外女名沢遺蹟の出土品のごときは、土器および石器の形状製作等において、全然津軽宇鉄遺蹟の出土品と区別し難きまでに相類似したものでただに内地の石器時代文化が北海道に伝わったというばかりでなく、おそらく津軽地方の住民がその郷土の文化を携えて、そのままここに移住したのではなかろうかとまで、認めらるるに至ったのであった。
しかもこの北海道における石器時代の状態は、地方によっては案外に近い時代まで継続したもので、約百五十年前なる寛政の『蝦夷島奇観』には、北海道なる竪穴遺蹟から石器・土器を出だすことを記した末に、「今も深山に住む夷は、石刀を用ひて切断の器となせり」とあるほどであった。
もちろんこれは「深山」の蝦夷に限られたことで、海岸に住み、つとに和人に接触するの機会を有するものに、最近代までもそんなことがあったとは思われぬが、しかし根室・北見あたりの石器を出す竪穴には、今もなお掘立柱が腐朽したままに土中にその形を残している例もあって、三、四百年を経過したとはとうてい思惟し難いものが多く、また日高の厚別河口なる遺蹟からは、室町時代の物と認められる彫透し鍍金の装飾を有する木身の
腰刀
(
ユマサ
)
が、多数の石器・土器、および石器屑などとともに発見せられている。
ことに石製の煙管の往々にして他の石器とともに発見せられるといわるることは、煙草伝来以後にも、なお彼らが石器を使っていたことを示すものである。
同上, pp.403-405
しかるに去る昭和六年七月、余輩北海道に遊びてたまたま北大図書館の高倉新一郎君から、石狩江別町江別兵村より蕨手刀らしい刀剣の幾口かを掘り出した人があるとの話を聞き、その当時は日程の都合上親しく調査するの機会を得なかったが、その後同君に嘱して、発掘品のスケッチの送致を受けこれを観るに、そのうちの二口は明かに奥羽地方の古墳より多数発見せらるる蕨手刀と全然同種のものであり、今一口は毛抜形太刀の原始型ともいうべき、きわめて珍らしいものであることが判った。
のみならず、同君の報告によって、それらの刀剣とともに、曲玉・管玉・琥珀製小平玉・刀子・直刀、その他種々の遺物が、小封土群から発見せられたのであることもほぼ明かにせられた。‥‥‥
これら発掘品の中で最も注意を惹く物は、いうまでもなく毛抜形刀および唐様刀類似の刀剣である。
毛抜形刀は、内地においては平安朝ころに衛府の太刀に見るところで、伝世品として少数の実物が存する以外、いまだ古墳からそれが発見せられた事実を聞かぬ。
特に江別発掘の物は形も内地の伝世品とは違い、刀身の幅割合に広く、単に蕨手刀の柄に毛抜形の彫透かしを加えたというべきほどのもので、けだしこの種刀剣の原始型であるべく推測せられるのである。‥‥‥
果してしからば江別兵村発掘のこの毛抜形刀は、蕨手刀とともに熟化したる蝦夷の太刀として、ひとり奥羽地方のみならず、北海道の蝦夷もまた好んでこれを帯びたものであったといわねばならぬ。‥‥‥
おそらく奈良朝から平安朝初期において、衛府の舎人等の帯びた太刀の類であったと解せられるのである。
文化遺産オンライン
から引用
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北海道恵庭市 柏木東遺跡(茂漁第11号墳) 出土 蕨手刀
鈴木 (2016), p.7 から引用
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鈴木 (2016), p.2 から引用
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引用文献
喜田貞吉 (1933) :「奈良時代前後における北海道の経営」
歴史地理, 第62巻第4-6号, 1933.
伊東信雄[編]『喜田貞吉著作集第9巻 蝦夷の研究』, 平凡社, 1980, pp.384-413.
鈴木琢也 (2016) :「擦文文化の成立過程と秋田城交易」
北海道博物館研究紀要, 1, 2016. pp.1-18
https://expydoc.com/download/10593947
引用/参考Webサイト
Wikipedia
蕨手刀
毛抜形太刀
文化遺産オンライン
蕨手刀