Up 「渡島」 作成: 2025-03-06
更新: 2025-03-08


      『日本書紀』斉明天皇四年四月 (658年)
    阿陪臣闕名 率 船師一百八十艘、伐 蝦夷。
    齶田・渟代二郡蝦夷 望怖 乞降。
    於是、勒軍陳船 於齶田浦、
    齶田蝦夷 恩荷進 而誓曰
    「不爲官軍故 持弓矢、但 奴等性食肉故 持。
     若 爲官軍 以儲弓矢、齶田浦神 知 矣。
     將 淸白心 仕官朝 矣。」
    仍 授恩荷 以小乙上、定渟代・津輕二郡々領。
    遂於 有間濱、召聚 渡嶋蝦夷等、大饗而歸。

      『日本書紀』斉明天皇五年三月 (659年)
    遣 阿倍臣闕名 率 船師一百八十艘、討 蝦夷國。
    阿倍臣 簡集
     飽田・渟代二郡蝦夷 二百卌一人・其虜卅一人・
     津輕郡蝦夷 一百十二人・其虜四人・
     膽振鉏蝦夷 廿人、
    於一所而大饗賜祿。
    膽振鉏、此云伊浮梨娑陛。
    卽以船一隻與五色綵帛、祭彼地神。
    至肉入籠時、問菟蝦夷 膽鹿嶋・菟穗名 二人進曰、可以 後方羊蹄 爲 政所 焉。
     肉入籠 此云 之々梨姑、
     問菟 此云 塗毗宇、
     菟穗名 此云 宇保那、
     後方羊蹄 此云 斯梨蔽之。
     政所、蓋 蝦夷郡 乎。
    隨 膽鹿嶋等語、遂置 郡領 而歸。
    授 道奧與越國司 位 各二階、郡領與主政 各一階。
    或本 云、阿倍引田臣比羅夫、與肅愼戰 而歸、獻虜卌九人。

      『日本書紀』斉明天皇六年三月 (660年)
    遣 阿倍臣闕名 率 船師二百艘、伐 肅愼國。
    阿倍臣、以 陸奧蝦夷 令 乘己船到大河側。
    於是、渡嶋蝦夷 一千餘屯 聚海畔、向河而營。
    營中二人進而急叫曰「肅愼船師多來將殺我等之故、願欲濟河而仕官矣。」
    阿倍臣、遣船 喚至 兩箇蝦夷、問 賊隱所與其船數、
    兩箇蝦夷 便 指隱所 曰「船廿餘艘。」
    卽遣使喚、而不肯來。
    阿倍臣、乃積綵帛・兵・鐵等 於海畔 而令 貪嗜。
    肅愼 乃陳船師、繋羽於木舉 而爲旗、齊棹 近來 停於淺處、
    從一船裏 出 二老翁、𢌞行 熟視 所積綵帛等物、
    便 換着單衫 各提布一端、乘船 還去。
    俄 而老翁更來、脱 置換衫 幷置 提布、乘船而退。
    阿倍臣 遣數船 使喚、不肯來、復於 弊賂辨嶋。
    弊賂辨、渡嶋之別也。
    食頃 乞和、遂不肯
    據 己柵 戰。
    于時、能登臣馬身龍、爲敵 被殺。
    猶戰未倦之間、賊 破殺 己妻子。


      喜田 (1933), p.388
    明かにわが古文献に見える北海道関係の記事としては、阿倍臣遠征の時のそれをもって最初とする。‥‥‥
    斉明天皇の四年 (658年) 四月、比羅夫船師一百八十艘を率いて蝦夷を伐ち、齶田(秋田) ・淳代(熊代) 二郡の蝦夷を降したとある。
    ここに百八十艘の船師とは、もと多数を意味する百八十(やそ)の旧辞に、さらに(もも)を附してこれを誇大したものと見るべく、もとよりその実数ではない。
    当時、北陸道地方から北海道に至るまで、すべて越の範囲に属するものとして、その国守たる比羅夫大軍を率いて管内の経営に従事したことを語ったものにほかならぬ。
    この時、比羅夫は二郡の郡領を定め、さらに有間浜(ありまのはま)に渡島の蝦夷らを召来して、大いにこれを饗して帰るとある。
    これ渡島の初見で,それが北海道を意味することに異論はない。
    ただしここに有間浜とは渡島の中ではなく、おそらく後の江流末(えるま)郡の地で,今の津軽十三湊(とさみなと)のことであろう。
    十三湊は津軽地方の要津として、安東時代には夷船、京船群集するの繁昌をなしたとあり、比羅夫当時においてもすでに北海道に渡る津頭として、渡島の蝦夷は常にここに往来し、この時も比羅夫の召集に応じて、海峡を渡りてその饗に与ったものであろう。

      同上, p.390
    『日本紀』の記事を信ずれば、比羅夫の遠征は斉明天皇四年・五年・六年と前後三回に及び、しかしてその第三回目には確かに北海道にまで軍を進めているのである。
    比羅夫陸奥の蝦夷を伴い、船を進めて大河の側に到るや、渡島の蝦夷一千余、海畔に屯聚して河に向って営し、その営中より二人進み出でて、「粛慎の船師多く来りてわれらを殺さんとするのゆえに、願わくは河を済りて官に仕えん」〔六年三月条〕と叫んだとある。

      同上, pp.392,393
    しかしてその阿倍氏は、かつて北陸方面綏撫の将軍としてその威名を伝えられた大彦命の後育と称せられ、なお豊城入彦命の後奇と称せられた上毛野氏(かみつけのうじ)下毛野氏(しもつけのうじ)が、祖先の東国鎮撫の伝説を有して、両毛地方に勢力を有していたと同じように、もともと北陸地方の土豪であったと推測せられるのである。
    さればその阿倍比羅夫が越後守に任ぜられた事情は、普通に地方官吏が中央\政府の任命によって、随時京都から赴任したものとは趣を異にして、なお平安時代末期に奥州の夷秋と呼ばれた藤原秀衡が、平泉に根拠を構えたままに陸奥守に任ぜられ、また鎌倉時代の初期に津軽の豪族安東氏が、そこに土着したままに執権北条義時の代官として、蝦夷管領の任務を帯びていたのと類似の関係をもって解すべきものであったと思われる。
    阿倍氏の威名が後までも夷地に対して盛行したことは、後年奥州の土豪懐柔の一手段として、しばしば名家の姓を賜わった中に、阿倍姓のもの最も多数を占めていたことによっても裏書きされよう。

      同上, pp.396,397
    けだし当時奥羽地方の夷酋について見るごとく、あるいは国家の官吏に任ぜられ、国家の位階をまでも授与せられたほどのものが、北海道においてもかなり奥深き地方にまで存在したのであったらしい。
    しかしてこの見地から観察して、従来あまり重く見られなかった文献上の史料からも、相当重要なる価値を見出し得るのである。
    今試みに古書に散見する比羅夫遠征以後平安朝初期までの記事を抄録してみる。
    持続天皇十年三月、
    越度嶋蝦夷伊奈理武志、与 粛慎志良守叡草、錦袍・袴・緋紺結・斧等。
    (『日本書紀』)
    元正天皇養老二年八月、
    出羽並渡島蝦夷八十七人来、貢 馬千疋。則授 位禄。
    (『扶桑略記』)
    元正天皇養老四年正月、
    渡島津軽津司従七位上諸君鞍男等六人 於靺鞨国,観其風俗 
    (『続日本紀』)
    光仁天皇宝亀十一年五月、
    勅 出羽田 曰、渡島蝦狄早効丹心、来朝貢献、為日梢久。 方今帰俘作逆、侵 擾辺民。宜 将軍国司、賜 饗之日、存意慰喩焉。
    (『続日本紀』)
    桓武天皇延暦二十一年六月。
    太政官符。 禁断私交易狄土物事。 右被右大臣宣偁、渡島狄等来朝之曰、所貢方物、例以雑皮。 而王臣諸家、競買好皮,所残悪物、以擬進官。 仍先下符、禁断已久。 而出羽国司、寛縦曾不遵奉。 為吏之道、豈合如此。 自今以後厳加禁断。 如違此制,必処重科。 事縁勅語,不得重犯。
    (『日本紀略』)
    嵯峨天皇弘仁元年十月、
    陸奥国言。 渡島狄二百余人、来着部下気仙郡,非当国所管、令之帰去。 狄等云、時是寒節、海路難越、願侯来春欲帰本郷者。 許之。 留住之間 宜給衣粮。
    (『日本後紀』)



    助言:漢文の読み方
      漢文は,英文を読むように,頭からそのまま読む。
    学校では, 「レ, 一,二,‥‥‥」の記号を以て,あちこちひっくり返して読むやり方を指導しているが,これは間違い。
    漢語の構文は,英語と同じである。
    つぎがわかっていれば,だいたい意味がとれる:
      動詞と名詞の別
      let にあたる使役の語「使」
      by, with にあたる「以」
      at にあたる「於」
      then にあたる「而」
    そして読むときは,語句の間をスペースで区切って,構文をみやすくする。
    実際,古文とくらべれば,漢文はずっと意味をとりやすい。


  • 引用文献
    • 『日本書紀』
    • 喜田貞吉 (1933) :「奈良時代前後における北海道の経営」
      • 歴史地理, 第62巻第4-6号, 1933.
      • 伊東信雄[編]『喜田貞吉著作集第9巻 蝦夷の研究』, 平凡社, 1980, pp.384-413.