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喜田 (1937), p.115
今も旧南部領の僻地には、蝦夷村だ、アイヌ村だとして指斥せらるるものが処々に存在し、中にはあの家はアイヌ筋だなどと言わるるものも少からず、古老の口碑には、百年前までアイヌがいたとか、北海道に渡ったものがかの地のアイヌ村を訪問して、たまたま南部より渡来したと称するアイヌと邂逅し、郷里の談話を交換したなどという話は諸所に語られているのである。
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同上, pp.116-118.
今も旧南部領の僻地には、蝦夷村だ、アイヌ村だとして指斥せらるるものが処々に存在し、中にはあの家はアイヌ筋だなどと言わるるものも少からず、古老の口碑には、百年前までアイヌがいたとか、北海道に渡ったものがかの地のアイヌ村を訪問して、たまたま南部より渡来したと称するアイヌと邂逅し、郷里の談話を交換したなどという話は諸所に語られているのである。‥‥‥
余輩この事実をもって非常に珍らしく、かつ興味あるものと考えたがために、東北帝大の食堂において食後の雑談のさいにこれを紹介したところが、列席の岩手県二戸郡出身講師田中館秀三君は、さらに新しき事実を教示せられた。
南部ではまだまだ後までもアイヌは遺存して、現に私が子供の時分に、乳母とも、子守ともして面倒を見てくれた婦人は、二戸郡石切所村〔二戸市〕のアイヌの娘であり、その父親は長鬚をはやした立派な風采の男で、妻はその夫に対してアイヌと呼称していたというのである。
田中館君の幼時といえば明治二十年ころのことで、このアイヌはむろん明かに日本民籍に編入せられていたに相違ないが、しかし事実上なお隣人からアイヌとして認められ、家庭においてもアイヌとして自認していたことが知られるのである。
田中館君の話はなお続く。
それよりもまだ後までもアイヌは二戸郡にいましたよと言われるのである。
同君が小学校在学のころ教員に引率せられて、同郡福岡町なる区裁判所へアイヌの公判を見学に行かれた。
事件は二戸郡在住アイヌの父子が山狩に行ったさい、子が誤って親を射ったという過失傷害罪で、この家族はもと二戸郡にいたのであったが,いったん北海道へ移住し、後再び郷里へ帰って来たのであったがために、北海道育ちの子供の方は日本語が十分出来ない。
そこで公判に際し被害者が被告の通弁をしたというのである。‥‥‥
以上三箇の新事実はいずれも最も信ずべきもので、津軽においても、南部においても、近く明治年代まで、その戸籍にはなんとあろうとも、事実上アイヌが依然みずからアイヌたることを意識し、他からも然か認識せられて遺存したのであった。
しかもこれらのアイヌは歴史時代の蝦夷の遺孼として、その間毫もギャップなく、きわめて円滑に連続したものであり、しかもそれは現代の北海道アイヌをもって、同族たることを任じたのであった。
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- 引用文献
- 喜田貞吉 (1937) :「蝦夷およびアイヌと縄文式石器時代人」
- 東北帝国大学文科目会, 1937.
- 伊東信雄[編]『喜田貞吉著作集第9巻 蝦夷の研究』, 平凡社, 1980, pp.104-136.
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