Up カッコウ (郭公) 作成: 2018-06-12
更新: 2021-09-26


分類: 動物界 | 脊椎動物門 | 脊椎動物亜門 | 鳥綱 | カッコウ目 | カッコウ科 | カッコウ属


      Dawkins (1989), pp.398-402
     カッコウの卵を暖めるようにだまされた里親に感情移入するのはやさしい。
    人間の卵採集人もまた、カッコウの卵の、たとえばマキパタヒバリの卵やヨーロッパヨシキリの卵との並外れた類似にだまされてきた (雌のカッコウは品種ごとに、それぞれ違った寄主の種に特殊化している)。
    理解しがたいのは、繁殖期の後期における里親の、ほとんど巣立ち寸前のカッコウの雛に対する行動である。
    カッコウはふつう「親」よりもずっと体が大きく、場合によってはグロテスクなほど大きい。
    私はいまヨーロッパカヤクグリの成鳥の写真を見ているが、その怪物のような里子に比べてあまりにも小さいために、餌を与えるためにはその背中に乗らなければならないのだ。
    ここではわれわれは寄主にあまり同情を感じない。
    その愚かさ、だまされやすきにあきれ果てる。
    まちがいなく、どんな馬鹿な動物でも、そんな子供はどこかおかしいと見抜くことはできるはずではないか。
     カッコウの雛はむしろ、その寄主を単に「だます」以上のことを、単に本当の自分ではない何かの振りをする以上のことをしているにちがいないと私は考える。
    彼らは寄主の神経系に常習性の麻薬と同じような形で働きかけているように思われる。
     ‥‥‥  
     カッコウの雛の大きく間けた赤い口はあまりにも誘惑的であるから、鳥類学者が、ほかの鳥の巣にすわっているカッコウの赤ん坊の口の中に食べ物を落としている鳥の姿を見かけるのは珍しいことではない。
    この鳥は自分の子供に餌を運んで巣にもどる途中だったかもしれない。
    突然、目の片すみに、まったくちがう種類の鳥の巣のなかにいるカッコウの雛の特別大きく開けられた真っ赤な口が飛びこんでくる。
    鳥はこのよそ者の巣に向かって方向を転じ、そこで自らの子供の口に入るべき運命にあった食べ物をカッコウの口のなかに落とす。
    「抗しがたさ説」は、里親が「麻薬中毒者」のように振るまい、カッコウの雛が彼らにとっての「悪癖」として振るまうと述べた初期のドイツの鳥類学者たちの見解と一致する。
    この類いの言葉づかいが最近の実験家の一部からはあまり好まれないということを付け加えておくのは公正であろう。
    しかし、カッコウの間いた口が麻薬のような強力な超刺激であると想定すれば、なにがおこっているかがはるかに説明しやすくなるのはまちがいない。
    怪物のような子供の背中に乗ったちっぽけな親の行動にずっと共感をもちやすくなる。
    それはけっして馬鹿になったわけではない。
    「だまされる」というのは誤った言葉づかいである。
    その神経系は、あたかもそれが無力な麻薬中毒患者であり、あるいはあたかもそのカッコウが里親の脳に電極を差し込む科学者ででもあるがごとき状況のもとで、抗しがたくコントロールされているのである。  
     しかし、たとえ操作される里親に今やわれわれがいっそうの個人的共感をもつようになったとしても、カッコウがそれによって罰を受けないでいることをなぜ自然選択が許してきたのかを、なお問わねばならない。
    なぜ寄主の神経系は赤い口という麻薬に対する抵抗性を進化させなかったのか?
    ひょっとしたらそれがはたらくだけの時間がまだ足りないのかもしれない。
    もしかしたらカッコウはせいぜい数百年前から、現在の里親への寄生を開始したのであり、ここ 2、3百年のうちにはそれらを諦めて、別種類の犠牲者を求めることを余儀なくされるのかもしれない。
    この理論を支持する証拠はいくつか存在するが、私は、ここにはそれよりも重要な何かがあるという思いを禁じえない。  
     カッコウとその寄主となる任意の種とのあいだの進化的な「軍拡競争」においては、失敗の出費の不平等に起因する一種の生来的な不公正が存在する。
    個々のカッコウの雛は、祖先のカッコウの雛たちの連綿たる系列に由来するもので、この系列に属するすべての個体は、その里親を操作することに成功してきたにちがいない。
    里親に対する支配力を、たとえ一時でも失ったカッコウの雛は、死ぬほかなかったのだ。
    しかし、個々の里親は、その多くが生涯に一度もカッコウに出会ったことがないような連綿たる祖先の系列に由来する。
    そして、巣の中に実際にカッコウを産み込まれた親鳥も、それに打ち負かされながらも生きながらえて、次の繁殖期には別の一腹の雛を育てることができただろう。
    問題は、失敗の出費に非対称性があるという点だ。
    カッコウの奴隷になることに抵抗しそこなう遺伝子は、ロビンやヨーロッパカヤクグリの世代から世代へ簡単に伝わりうる。
    これこそ私が「生来的な不公正」および「失敗の出費の非対称性」という言葉でいわんとするところである。
    この点は、次のイソップ寓話に要約されている。
    すなわち「ウサギはキツネより速く走れる。なぜなら、ウサギは命がけで走っているが、キツネは御馳走のためにのみ走っているからだ」。
    わが同僚のジョン・クレプスと私はこれを「命/御馳走原理」と名づけた。  
     命/御馳走原理のゆえに、ときには動物が、自らにとって最善ではないような形で振るまい、ほかのいずれかの動物によって操作されるととがありうる。
    だが実際には、彼らはある意味で自らにとって最大の利益になるように行動しているのだ。
    命/御馳走原理の全体的な要点は、理論上は操作に抵抗することができるが、そうすることはあまりにも費用がかかりすぎるということだ。たぶん、カッコウによる操作に抵抗するためには、より大きな眼あるいは脳をもたなければならないが、それには間接的な出費を伴うだろう。
    操作に抵抗する遺伝的性向をもっライバルは、抵抗に要する経済的出費のゆえに、現実には子孫に遺伝子を伝えることにあまり成功しないだろう。  
     しかし、またしてもわれわれは、生物をその遺伝子よりも生物個体という観点から見ることに、ついうっかりと後退してしまった。
    吸虫とカタツムリについて語った際、寄生者の遺伝子は寄主の体に対して、あらゆる動物の遺伝子がそれ「自身の」体に表現型効果を及ぼすのと正確に同じ形で、表現型効果を及ぼしうるという考えかたに慣れたと思う。
    われわれは、「自身の」体という考えそのものが、偏見を背負った仮定であることを示したはずなのだ。
    ある意味で、一つの体の中にあるすべての遺伝子は、われわれがそれを体「自身の」遺伝子と呼ぶことを好むか好まないかにかかわりなく、「寄生的」遺伝子なのだ。
    カッコウは、寄主の体の内部に生きてはいない寄生者の一例としてこの議論に登場した。
    しかし彼らは内部寄生者とまったく同じように、寄主を操作し、その操作は、先に見てきたように、体内の薬物やホルモンのように強力で抵抗しがたいものでありうる。
    内部寄生者の場合と同じように、われわれは今や、すべての事柄を遺伝子と延長された表現型という観点から述べなおさなければならない。  
     カッコウと寄主とのあいだの軍拡競争においては、いずれの側の進展も、自然に生じ、自然選択によって選ばれる遺伝的突然変異という形をとる。
    カッコウの開いた口において寄主の神経系に麻薬のように作用するものがなんであれ、それは遺伝的な変異として生じたものにちがいない。
    この突然変異は、カッコウの雛の開いた口の、たとえば色や形状などに対する効果を通じて、はたらきかけた。
    しかしこれでさえ、そのもっとも直接的な効果ではない。
    そのもっとも直接的な効果は、細胞内部における目に見えない化学的な現象に及ぼされるものであった。
    開いた口の色や形状に対する遺伝子の効果それ自体は間接的なものである。
    そして、ここに問題の要点がある。
    それよりほんのわずか間接的なものは、同じカッコウの遺伝子が正気を失わされた寄主の行動に及ぼす効果である。
    カッコウの遺伝子がカコウの開いた口の色や形状に (表現型) 効果をもっているというのと、厳密に同じ意味で、われわれは、カッコウの遺伝子が寄主の行動に (延長された表現型) 効果をもっていると語ることができる。
    寄生者の遺伝子は、単に寄生者が寄主の体内にいて直接的な化学的手段によって操作できる場合だけでなく、寄生者が寄主から遠く離れて、遠隔操作する場合にも、寄主の体に効果を及ぼすことができる。
    実際、これからみるように、化学的な影響でさえ、体の外側から作用しうるのである。