Up 仏典の捉え 作成: 2021-10-18
更新: 2021-10-18


    「仏典」と呼ばれているものは,原始仏典と仏教がつくる典籍の二種類である。
    前者は,ブッダの伝説である。
    後者は,ブッダを神格化するフィクションである。

    ブッダを知ることが目的で仏典にあたろうとするときは,後者は無視する。
    あたるべき仏典は,原始仏典である。
    原始仏典は,ブッダを超人化するフィクションだが,神格化までは行っていない。
    よって,等身大のブッダを窺う余地が残っている。


    原始仏典は,ブッダの時から数百年経って形を現す。
    それまでは語り継ぎである。
    語り継がれてきたことを記すのが,仏典づくりの最初。
    そして,先行するテクストに尾ひれをつけるという進展になる。

    こういうわけで,原始仏典の内容は,異なる仏典の間だけでなく,一つの仏典の中でも矛盾するところが多々ある。
    その矛盾は,娑婆の道徳の導入によるものである。
    そこで,この類を切り捨てる。
    そうすると,残る部分は僅かとなる。

    仏典の数はすさまじい。
    しかしブッダを知ることが目的であれば,結局,中村元訳の『ブッダのことば スッタニパータ』『神々との対話』『悪魔との対話』の3つで事足りる。
    この中で,重複減らし,矛盾する内容の切り捨てをする。
    そうすると,抽出されるのがほんとうに僅かとなるわけである。


    このことに対し,仏典にすさまじい数があることは無駄,と思ってはならない。
    それらには,「捨て石」という存在理由がある。

      惠子 謂莊子 曰:子言「無用」。
      莊子曰:知「無用」 而始可與 言「用」矣。
          夫 地 非不廣且大也,人之所用 容足耳。
          然則 廁足 而墊之 致黃泉,人尚有用乎?
      惠子曰:無用。
      莊子曰:然則「無用之為用」也亦明矣。
               (『荘子』, 雑篇・外物 7)

      惠子が莊子に言う:
        子は「無用」をおっしゃいますね。
      莊子が言う:
        「無用」を知ってはじめて「用」を言うことができるからさ。
        大地はすごく広くて大きいが,人がそれを用いるのは足がはいるだけのところだ。
        そんなら,足の分だけ残して黃泉まで削り取ってしまう。
        それでなお,用があるかな?
      惠子が言う:
        用は無いですね。
      荘子が言う:
        というわけで「無用之為用 (無用が用になるということ)」もまた明らかだろ。


    引用文献
    • 中村元 (1991) : 中村元[訳]『ブッダのことば スッタニパータ (Sutta-nipāta)』, 岩波書店 1991
    • 中村元 [訳]『神々との対話 (Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga 1〜3)』, 岩波書店, 1986.
    • 中村元 [訳]『悪魔との対話 (Saṃyutta-nikāya, Sagātha vagga 4〜11)』, 岩波書店, 1986.