Up インド密教史 作成: 2018-05-25
更新: 2018-06-18


  • 時代区分
    1. 初期密教
    2. 中期密教
      • 行タントラ
      • 瑜伽タントラ
        • 金剛頂経,理趣経
    3. 後期密教 (「タントラ仏教」)


  • 仏教の非大衆性,民衆からの遊離
      中村元[著]『密教経典・他』, pp.142-145.
    仏教だけが滅びたということには、なにかわけがなければなりません。
     その理由として、まずあげなければならないのは、仏教がもともと合理主義的な哲学的な宗教であったということです。そのために、ややもすれば一般民衆に受け入れられにくい傾向があったのです。
    仏教は、呪術・魔法のようなものを排斥しました。それのみならず、バラモン教で行う祭祀をも無意味として排斥しました。
     また仏教は、インドの社会に伝統的なカーストという階級制度に反対して、すべての人間は平等であると唱えました。そのために、階級的な差別を立ててこれを固守しているバラモン教とは氷炭相いれないものとなったのです。バラモン教は、いうまでもなく、インドの民族宗教です。
     ‥‥
     こういうわけで、伝統的な仏教教団は、ややもすれば、バラモンに帰依しているインドの一般民衆から離れて、独善的・高踏的態度を保つ傾きが現れました。
    仏教のうちでも、伝統的・保守的な仏教は小乗仏教とよばれるものですが、それは主として社会の上層階級の支持、後援のみをめあてとしていました。 当時の支配階級である王侯・貴族・富裕な商人などの後援、支持を受けていたのです。王侯・貴族・大地主などが教団に土地を寄進し、また海外貿易に従事していたような富裕な商人たちは、多額の現金を寄進していたのです。
     この事実は、当時の碑文や記録によって知られます。教団は、これらの寄進された土地からあがる小作料を生活の資とし、また寄進された現金を種々の商人のギルドに貸し付けて、その利息を教団の経費に充てていました。すなわち、教団そのものがいわば地主または利子生活者に堕してしまっていたのです。
    そのようにして、当時の僧侶は民衆から離れて、奥深い大寺院の中でひとり膜想にふけるか、あるいは煩墳な学問の遊戯にふけっていました。
    かれらは、民衆とともに苦しみ、民衆を救おうとする精神が乏しく、伝道精神が欠けていたのです。
     ‥‥
     大乗仏教の場合でも、のちになって大教団を形成するころになると、やはり同様な傾向が現れました。
    大乗仏教はひじょうに深遠高尚な哲学や論理学を発達させたけれども、それが発達の頂点に達したころには、やはり大寺院のなかの奥深いところで論議されているだけであって、一般民衆のあいだに普及しませんでした。
    これらの大寺院はやはり王侯に保護され、荘園の経済力によって維持されていたのです。
     一般民衆は、あいかわらず太古さながらの呪術的な祭祀や迷信を信じて行っていました。
    仏教の学問は民衆から離れていました。
    だから、イスラーム教徒が侵入してインドを征服し、従来の支配階級が没落するとともに、仏教も姿を消してしまったのです。


  • 密教の出現・発展
      中村元[著]『密教経典・他』, pp.68-72.
     仏教は、カニシカ王の現れたクシャーナ王朝時代までは、ひじようにさかんでした。
    クシャーナ王朝は三世紀ごろまでつづきましたが、その後インドではグプタ王朝がインド全体を統一するようになり、西暦三二O年から約五OO年ごろまでつづきます。
    グプタ王朝の成立とともに集権的な国家体制が確立して、中央の政治的・軍事的権力が今までさかんであった商業活動を統制しようとします。
     また、他方では、この時代に西洋では西ローマ帝国が衰退していきました。
    そして、その滅亡にともない東と西とのあいだの海外貿易も衰退していったのです。
    以前に仏教がさかんであったクシャーナ王朝時代には、ローマから莫大な金の流入があって経済も栄えたのですが、貿易がとだえると、それはもはや不可能となりました。
    また、古い時代にはギルドの如き組織がひじように勢力があって、組合が通貨を発行したこともありましたが、グプタ王朝時代、あるいはそれ以後の組合にはもはやこういう力はなくなりました。
    そして、中央の権力から商業統制を受けるようになったのです。
     仏教が栄えていたころの仏教教団は、王侯貴族の支持や後援もありましたが、また富裕な商人の帰依にまつことがひじように多かったのです。
    したがって商業資本が衰えると、仏教教団の基盤も弱くなりました。
    反対に、農村で民衆のあいだにずっと根を下ろしていた草の根の宗教であるバラモン教ないしヒンドゥー教は少しも衰えず、むしろ仏教の衰退とともに優勢になっていきました。
    国王たちも、農村に住むバラモンたちの意見や要求に従わざるをえなくなっていきます。
    そこで仏教も、バラモン教ないしヒンドゥー教と妥協せざるをえなくなり、民間信仰をもとり入れた新しい仏教のかたちである密教を成立させたのです。
     最初、原始仏教は、呪い・占いは一切禁止しました。
    自分の力にたよって修行するという立場をとったのです。
    ところが、仏教がだんだんと広がって民衆的になると、おのずから民間信仰というものを顧慮せざるをえなくなってきました。
    ことに大乗仏教になると、民衆の期待にこたえて、陀羅尼 [呪いの文句] を説くようになりました。
    前章でも触れましたが、陀羅尼というのは、サンスグリット語のダ|ラニーー(仏EB包)ということばの音を写したもので、呪いの文句です。‥‥ 陀羅尼のうちにすべて功徳をたもっている、その文句を唱えると不思議な功徳がある、病気を治したり、災いを除いたり、あるいは歯が痛いときにその文句を唱えると歯痛もなくなるとか、蛇を避けるとか、そのようなヒンドゥー教の信仰がとり入れられたのです。
      ‥‥ そのほか、ヒンドゥi教のいろいろな神がとり入れられました。‥‥
     こうして,しだいに仏教もヒンドゥー教の要素を多くとり入れていくようになりましたが、それが先に述べたような社会経済的変化にともないヒンドゥー教が圧倒的に有力になっていくと、だんだんヒンドゥー教との区別がつかないほどになっていきました。‥‥
    このような混淆はやがて仏教の堕落をひきおこし、また仏教はヒンドゥー教のうちに没入してしまうかたむきがありました。
     やがてミーマーンサー学派のクマーリラ (Kumarila 600ー650年ころ) や、ヴェーダーンタ学派のシャンカラ (Sankara 700ー750年ころ) が出現して、仏教思想を激しく論難し、シヴァ教の行者たちも仏教教団を攻撃しました。
     このようになって仏教は何らかの対応策をとらなければならなくなり、すでに以前からみられる傾向ではありましたが、とくに七世紀以後には、ヒンドゥー教のうちの一つの流派であるタントラ教 (タントリズム) とよばれる秘密の教義体系を仏教もとり入れ、そこで独自の特徴をもった宗教体系が成立しました。
    これが真言密教とよばれているものです。
    真言とか陀羅尼とかよばれる呪いの文句や、あるいは象徴的な意義をもっている指や掌の形、さらにもろもろの仏・菩薩を表す図 (曼荼羅) を用いて、修行の目的を達しようとしたのです。
     これらは、従来の仏教のうちに散在してはいましたが、顕著に体系化されることはなかったものです。

      中村元[著]『密教経典・他』, pp.146,147.
    上層階級の援助が期待できなくなった時点で、仏教教団は積極的に民衆に近づこうとしました。 もともと、民衆にたいする教化を積極的に行い、民衆を導こうとつとめる仏教者がいなかったわけではありません。 大乗仏教、少なくとも初期の大乗仏教には、そのような気運がいちじるしかったのです。
     しかし、これらの僧侶たちも、熱心にその運動をすすめていくうちに、当時の愚昧な一般民衆を教化するのは容易でないことを痛感しました。 かれらのぶつかった民衆は、依然として昔ながらの呪術的な信仰をいだいていました。 仏教は、‥‥最初から呪術・魔術の類を認めなかったので、一般民衆にはどうしても近づきがたいところがありました。
     そこで、大乗仏教では、民衆のこのような傾向に注目して、いちおう呪術的な要素を承認して、漸次に一般民衆を高い理想にまで導いていこうとしました。 だからダーラニー、すなわち呪文が数多くつくられました (それが日本に入ってきて、「大悲心陀羅尼」などは今日でもよく唱えられます)。
     また経典読誦の霊験・功徳が称揚されました。 また、仏教自身も当時の民間信仰を、そのまま、あるいは幾分か変容したかたちでとり入れました。
     この傾向は密教において絶頂に達しました。
    密教では、他の諸宗教の神々も大日如来の仮の現れだと考えます。


  • 仏教の頽廃
      中村元[著]『密教経典・他』, p.83.
     しかし、このようにして人間的な情を尊ぶということになると、仏教も次第に変わってきます。
    煩悩即菩提といいますが、人間のいろいろもっている感情とか欲望とかをすべて肯定する。 そのままで仏となれる。 即身成仏、この身に即した仏になれるというのです。
    即身成仏というのは後の日本で、仏教者が使ったことばですが、こういう考え方はインドにもあったのです。
     ところが、その傾向は、どうかするとなんでも人間的なことを肯定するようになっていきました。
    そうすると、人間が欲望に負けてしまい、後代の密教の末期になると、ひじように堕落したかたちとなって現れてきます。
    たとえば、仏さまの前で、部屋を真っ暗にして秘密のうちに男女がいく人か相対し、酒を飲み、肉を食らい、踊って、果ては乱れるというようなことが行われたのです。
    現世も肯定してそれでいいということになってしまい、けじめがつかなくなってしまったのです。
    その結果、仏教は堕落しました。
    そこへイスラーム教が入ってきて、仏教教団を破壊し、僧尼を殺戮する。
    こうして仏教はやがて消えてしまうのです。

      中村元[著]『密教経典・他』, pp.147,148
    こういう融合的精神が悪く表れた結果として、密教の一部の教徒はタントラ (tantra) の信仰を採用しました。
     このタントラの宗教は、当時民間で行われていた卑猥な宗教であり、男女の性的結合を絶対視するもので、これがとくに仏教を堕落させることとなりました。
    仏教ではもともと不邪淫ということを教えます。それは性の道徳を正しく守ることでした。ところが末期の堕落した仏教の一部においては、風俗を乱すような奇怪なことを説くようになったのです。
    また仏教では不飲酒ということを教えています。酒を飲むな、ということです。ところが末期の仏教においては、宗教的儀式に酒だとかあるいは強烈な刺激を与える薬品だとかを用いるようになり、しかもそれが公然と許されるにいたりました。
    当然、仏教そのものがいちじるしく変容し、堕落してしまうのです。


  • 仏教の衰滅
      中村元[著]『密教経典・他』, pp.84,85.
     仏教は、土着のものにたいするたいへん新しい思想として出てきて、厳しくやってきました。しかしインドでは、いろいろな社会的・歴史的条件のなかで、民衆のなかに浸透していって民衆の教えになっていったのではなく、逆にあまり厳しすぎてはいけない、民衆のものもとり入れなければいけないというふうになっていったのです。
     仏教はアジアのよその国に広がっていき、そこでは民衆のあいだに広まって、農民との結びつきが強靭で、家庭と結びつくようになりました。こうなると仏教は、基盤が堅固になって滅びません。
    しかし、本家本元のインドでは、基盤が脆弱で、果てはついにイスラーム教に滅ぼされて今日にいたるのです。 ところが,ヒンドゥー教はずっと残っているというのが実情です。

      中村元[著]『密教経典・他』, pp.149,150
     仏教教団は在俗信者のことをあまり問題とせず、強固な俗人信徒の教団組織を形成しませんでした。これはジャイナ教と対蹠的です。そうして、民衆に適合しようとあらゆる努力をなしたにもかかわらず、ついにヒンドゥー教諸宗派がしていたこと──つまり、在俗信者と密接な関係を保ちつつ、それを指導する努力──をしなかったのです。
     ことに、仏教は家庭の内部に宗教的な儀礼をもちこみませんでした。
    バラモン教の祭儀に関する種々の綱要書を見ると、人間の一生の各重大時期に、常に呪術的な宗教儀礼を行っていました。すなわち出生・命名・入盟式・結婚・死亡などの際には、とくに定められた複雑な宗教儀式を行っています。ところが仏教はこれらをすべて無視し、排斥してしまいました。どこまでも迷信排斥の立場に立っていました。しかも、これらの宗教儀礼を排斥したあとに、家庭と結びついた宗教儀礼の代替となるものを置きませんでした。結婚・入盟式・洗礼などの通過儀礼を行わなかったばかりでなく、いま日本では仏教の本質のように思われている葬儀や年忌をも行わなかったのです。
     すなわち、家庭生活の内部にまでも入って民衆を積極的・組織的に指導することをしなかったという点に、インドで仏教が誠びた一つの遠因を認めることができます。