Up 災害は誰かの得──攪乱の摂理 作成: 2025-04-23
更新: 2025-04-23


    自然は,大小様々な出来事が絶えず起きている。
    そしてそれぞれの出来事で,「被災者」が発生する。
    ここで,自然の出来事に「災害」のことばを使うのは,その出来事によってこれまで享受していた生活を壊される者である。

    ある者Aの<生活を享受する>は,他のある者Bの<生活を抑圧される>である。
    生きることは競争だからである。
    そこで,Aの災いは,Bの幸いになる。

    よって,自然の出来事に対し「災害」のことばを使うのは,身勝手である。
    自然は,そんな彼らを嗤う。
    「自然災害」は,身勝手な者たちに対する自然の嗤いである。


    科学は,自然の出来事に対し「災害」のことばを使うことない。
    中立的に「攪乱」のことばを使う。

    人間も自然のうち,人為も自然のうちである。
    よって,戦争や経済不況や交通事故も,「攪乱」のうちである。

    生態系では,優占種に虐げられる立場の種は,優占種に災いとなる攪乱を待つ格好になる。
    南海トラフ大地震・首都直下地震・富士山噴火も,これを期待する格好の種が存在している。
    戦争や経済不況や交通事故も,これを期待する格好の種が存在している。

    翻って,現前の生物多様性は,大小様々な攪乱の賜である。
    無生物の多様性も,大小様々な攪乱の賜ということになる。
    自然とは大小様々な攪乱が絶えず起こっていることであるから,自然は多様性をつくるのである。


    ひとが「格差」と呼んでいるものは,多様性のことである。
    格差は,自然がつくる多様性である。

    ひとは,格差は無くさねばならないと思っている。
    この<思っている>は,<思わされている>である。
    共同体は,員が「格差は無くさねばならない」と思うことが,持続の要件になるからである。

    格差は,無くならない。
    いまの格差を無くすことは,格差を更新することである。
    その行為の意味は,「攪乱」だからである。

      格差を否定する「革命」は,格差の更新である。
      「革命」は大多数の幻滅を以て収束するのがお定まりであるが,その幻滅の内容は「前よりいやらしい格差ができた」。


    日本はいま,超ド級の攪乱をこの先に控えている。
    それは,攪乱であって「災害」ではない。
    「災害」と思うのは,これまで生活を享受してきた者たちである。

    世界は,その者たちなのではない。。
    世界は,多様な種で構成されている。
    誰かの災いは誰かの幸いである。
    この多様性の妙を吟味すべし。