Up | なぜ「大災害」と「生態学」か | 作成: 2016-04-27 更新: 2016-04-27 |
とりわけ,人というものの理解である。 「人とはどういうものか?」 「大災害」は,この主題のために借りるものである。 なぜ「大災害」か。 人というものがよく見える場合だからである。 この論考の立場は,学である。 この学は,「生態学」になる。 人の生態が対象になるからである。 こうして,本論のタイトル『大災害生態学』となる。 「人とはどういうものか?」は,「人はいまどういうものになっているか?」である。 大災害時には,「いま」がよく現れてくる。 例えば,この度の熊本地震 (2016-04-16 本震) で,つぎの読売新聞の記事が現れた:
いま人としてあるとは,この記事の中の登場人物,そしてこの記事を書いた読売新聞の記者に,共感するということである。 ここで,「人としてある」に「いま」を付して「いま人としてあるとは」の表現をつくらせるものは,学である。 各種比較学の教養は,「いま」を付けさせる。 各種比較学には,歴史学や比較文化学や,そして生物学がある。 「いま」は,大災害時に人が現してくる様々な共感を相対化することばである。 たとえば,大災害時は「弱者」のことばが満ちあふれる。 「弱者」は,共感すべきものになっている。 しかし,「いま」のことばは,「弱者」も相対化していくことになる。 繰り返すが,本論考の大きな主題は,世界の理解,人というものの理解である。 この大きな主題にとって,大災害時に現れる<共感>は,よい素材になる。 そしてこの素材に対し本論考が行うことは,<共感>の相対化である。 大災害時に現れる<共感>を相対化することは,人としてやってはならないものになる。 即ち,背徳になる。 一方,大災害時に現れる<共感>を相対化することは,学としてはやれるものになる。 本論考は,学の立場でこれを行う。 学の立場であれ,徳の立場から見れば,内容は背徳になる。 よって,このことは最初にはっきりさせておく方がよい。 本論考は,背徳の論考である。 |