Up なぜ「大災害」と「生態学」か 作成: 2016-04-27
更新: 2016-04-27


    本論考の大きな主題は,世界の理解である。
    とりわけ,人というものの理解である。
    人とはどういうものか?

    「大災害」は,この主題のために借りるものである。
    なぜ「大災害」か。
    人というものがよく見える場合だからである。

    この論考の立場は,学である。
    この学は,「生態学」になる。
    人の生態が対象になるからである。

    こうして,本論のタイトル『大災害生態学』となる。


    人とはどういうものか?」は,「人はいまどういうものになっているか?」である。
    大災害時には,「いま」がよく現れてくる。

    例えば,この度の熊本地震 (2016-04-16 本震) で,つぎの読売新聞の記事が現れた:
       2016-04-24
    役所の庁舎が使用できない益城町や宇土市などの5市町で懸念されるのは,被災者への影響だ。
    「本震」で本庁舎が押し潰されるように壊れた宇土市役所。
    仮設テントでは電話回線が1回線だけで,市内在住の○○○○○さん (75) が道路の水漏れを連絡してもつながらなかった。
    「こんな時に行政の機能が止まって,仕方ないでは済まされない」と憤る。
    22日,益城町の仮庁舎となっている町保健福祉センターを訪れた○○○さん (85) は,罹災証明書と住民票を取得しようとして「役場が被災したので」と断られた。‥‥

    2016-04-25 避難所 バナナ1本に4時間
    ‥‥
    同小にバナナを届けたのは,岡山市の板金店勤務,○○○○さん (34)。
    勤務先の2トントラックにおにぎりなどを積み,16日夜,兄一家が避難する同小に駆けつけたが,避難者全員分はない。
    現場にいた教員から,「物流が滞り,支援が一切届いていない」と知らされた。
    支援物資は,同区内にある市の集積場の陸上競技場「うまかな・よかなスタジアム」から,各避難所に運ばれる仕組み。
    地震で相次ぎ使用不能になった県の集積場と異なり,同スタジアムは使えたが,「本震」による避難先の急増に配送用のトラックの数が追いつかず,各地から届いた支援物資が山積みのままだった。
    すぐにスタジアムに向かった○○さんは,「避難者の食糧がない」と現場の市職員に直談判。
    バナナ2000本を同小に運び,その後も2日間,輸送を手伝った。
    「被災者が困っているのに行政は機能停止状態。見ていられなかった」
    17日以降,民間や自衛隊のトラックなどが稼働し,物資は18日頃から行き渡り始めた。
    ただ,各避難所からは「水がないのにカップ麺ばかり」「賞味期限が切れてからパンが届く」などと,ニーズの把握ができていない行政へのいら立ちの声も相次いだ。‥‥

    いま人としてあるとは,この記事の中の登場人物,そしてこの記事を書いた読売新聞の記者に,共感するということである。
    ここで,「人としてある」に「いま」を付して「いま人としてあるとは」の表現をつくらせるものは,学である。
    各種比較学の教養は,「いま」を付けさせる。
    各種比較学には,歴史学や比較文化学や,そして生物学がある。

    「いま」は,大災害時に人が現してくる様々な共感を相対化することばである。
    たとえば,大災害時は「弱者」のことばが満ちあふれる。
    「弱者」は,共感すべきものになっている。
    しかし,「いま」のことばは,「弱者」も相対化していくことになる。


    繰り返すが,本論考の大きな主題は,世界の理解,人というものの理解である。
    この大きな主題にとって,大災害時に現れる<共感>は,よい素材になる。
    そしてこの素材に対し本論考が行うことは,<共感>の相対化である。

    大災害時に現れる<共感>を相対化することは,人としてやってはならないものになる。
    即ち,背徳になる。
    一方,大災害時に現れる<共感>を相対化することは,学としてはやれるものになる。
    本論考は,学の立場でこれを行う。

    学の立場であれ,徳の立場から見れば,内容は背徳になる。
    よって,このことは最初にはっきりさせておく方がよい。
    本論考は,背徳の論考である。