Up 「災難」の思想へ : 要旨 作成: 2019-04-03
更新: 2019-04-03


    災難は,思いかかずらっても詮無いものである。
    なぜなら,思いかかずらうのとそうでないのとで差が出てくるわけではないからである。

    思いかかずらうのは,それに時間がとられている分,人生の損である。
    そして,思いかかずらうのは,からだに悪い。


    世の中には,職種として,様々な専門家がいる。
    彼らは,生活実践的アドバイスを発することを生業にしている。
    こうして,世の中は,「‥‥‥を行動すべし」の声で満ちあふれることになる。

    ひとは,これらにチャンネルを張るようなことはしない。
    実際,そんなことをしたら精神がおかしくなる。
    ただ無視を決め込み,自ずと引っかかってくるものを己の関心とする。
    ひとは,たかだか一つのことしかできないのである。
    ひとはそれぞれに,なにがしかの「専門家」であるのみである。


    「防災」は,観念である。
    己を観念で縛り,行動を観念で律しようになると,本能に逆襲されることになる。
    観念と本能の衝突は,精神的・身体的障害に進む。

    例えば,「ダイエット」。
    これは,「太る」を災いとする「防災」である。
    この観念で行動を律すると,本能は身体の危険を察知して,<摂食・貯食>行動を指令する。
    食べ物を目前にしたとき,<摂食>指令は暴食を行わせる。
    <貯食>指令は,盗みを行わせる。

    本能──己の<生物>的次元──を甘くみてはいけない。
    観念に行動を従わせるような生き方は,してはならないということである。


    ひとは,「防災」イデオロギーに服する。
    ひとにとって,「防災」は絶対善──異論の余地のないもの──になる。
    ひとは,「防災意識の低い愚民」に位置づけられることを甘んじる。

    こうなるのは,「災難」の思想が無いからである。
    「防災」を<異論の余地のないもの>にまつりあげてしまうのは,単に「災難」の思想がもたれていないからである。