Up | 「反対」イデオロギー : 要旨 | 作成: 2016-04-02 更新: 2016-04-02 |
「原発反対」を以て大衆を組織化しようとするイデオロギーである。 「原発反対」は,原発を進める者・追随する者・容認する者を,原発の危険を認識していない/認識しようとしない者と定める。 そこで,原発の危険性を説いて彼らを改心させることを,実践課題と定める。 また,改心しない者を,原発の危険を理解する者たちで包囲し抑え込むことを,実践課題と定める。 このイデオロギーは,原発を進める者・追随する者・容認する者を,「安全神話」で自らを騙してきた者と定める。 この認識が,そもそも間違っている。 反対イデオロギーは,「「安全神話」神話」に嵌まっているのである。 実際,原発を進める者・追随する者・容認する者は,原発を安全だと思って,原発を進める者・追随する者・容認する者になっているのではない。 つぎの思いで,原発を進める者・追随する者・容認する者になっている:
「せめて自分が現役の間・生きている間は,事故が起こらないで欲しい」 「滅多なことは起こらないだろう」の思いの場合は,原発事故が起こった後は,むしろ強化されることになる。 原発事故後は,安全対策の強化が執行されることになるからである。 「航空機事故直後は,気を引き締めているはずだから,飛行機はいつもより安全だろう」の類である。 さらに,合理化の心理がこれに加担する。──「世界一厳しい安全基準」のことばで,自らを騙す。 原発を進める者は,ギャンブラーである。 原発に「滅多なことは起こらないだろう」と判じたら,原発を進める。 対して,反対イデオロギーの者は,《「滅多なこと」の存在は,原発を廃止する理由に足る》と考える者である。
(古儀君男, 岩波ブックレット No.919, 2015) ギャンブラーとギャンブルを諫めようとする者は,すれ違うのみである。 反対イデオロギーは,<ギャンブラーの夫をもつ妻>がこれの役どころである。 ギャンブラーがギャンブルをやめるのは,ギャンブルで身を滅ぼし尽くし,ギャンブルをしようにもできなくなったときだけである。 ギャンブラーには,<知>に訴えるやり方は通用しない。 ギャンブラーとは,ギャンブラーの<血>のことである。 <血>は<知>よりまさるというわけである。 |