Up | 災害の絵に厭きる | 作成: 2016-04-23 更新: 2016-04-23 |
ひとは,役割行動として,災害の絵づくりに参画する。 TVが,この絵をさらに編集して伝える。 また,ひとの役割行動は概して無意識であるが,TVは意識的である。 TVは,自ら災害の絵の構想を立て,「取材」として,絵を実現する素材をさがす。 そしてこれに,ひとが同調する。 カメラ,マイクの前に立つ者は,求められている絵を察知し,絵づくりに協力する。 つくられた絵は,下心が透けて見える。 無意識の偽善・欺瞞が透けて見える。 これが,嫌味の正体である。 絵でも,音楽でも,文芸でも,表現は難しい。 相手に訴えるものは,<素直さ>である。 <素直さ>の表出に,ひとは納得しそして感動する。 逆に,感動させることをねらってつくったものに,ひとは白ける。 特に,上手くいった手は,一回のものである。 同じ手で再び上首尾を求めようとすると,<素直さ>が無くなる。 <素直さ>が無くなったそれは,鼻に付くものになる。 同じ手の繰り返しは腐敗し腐臭を放つようになるというわけである。
災害の絵づくりは,手法がすでにマンネリ化している。 災害の絵は,その手法が嫌味になる。 こうして,災害の絵には「賞味期限」というものがあることになる。 これを過ぎると,鼻に付くようになる。 マンネリの絵は,なぜ繰り返されるのか。 ひとは,「新陳代謝」として,忘却する。 また,「世代忘却」というのもある。 忘却は,リセットである。 マンネリの絵も,しばらく期間をおいて出てくれば,これをマンネリに感じる者は既にいなくなっている。 こうして,しばらく期間をおいて起こった新たな大災害は,また同じ絵づくり作業を開始してよい時である。
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