Up 感染症を忌避する文化 作成: 2020-03-14
更新: 2020-06-14


    人間──そもそも生物というもの──は,ウィルスと共存して進化してきた。
    生物にとってウィルスは,《それに慣れる》《それを体の要素にする》というものである。

    ひとは,ウィルスに絶えずさらされている。
    ウィルスを忌避しても始まらない。
    要点は,
      <ウィルスにさらされている>と<発症する>は,別
      <発症する>と<重症化ないし死亡する>は,別
    ということである。
    発症は,色々な条件が重なって発症するというものである。
    重症化・死亡は,色々な条件が重なって重症化・死亡するというものである。
    発症は確率の問題であり,重症化・死亡は確率の問題である。

     註: 「感染」をいうことは,無意味である。
    感染は0か1ではないからである。
    <ウィルスにさらされている>と<発症>の間に<感染>というフェーズがあるわけではない。


    例えばインフルエンザだと,発症の確率は高い。
    2018年度は,推定1千万人以上が発症で病院にかかっている。
    一方,死亡の確率は,同年度で,
      国民10万人あたり 2.7人
    である。
    これは多いのか少ないのか?
    これだけでは考え様が無いので,他の馴染みの死因と比べることになる:
      10万人あたり 311.3 人
      心疾患  〃167.6 人
      肺炎  〃76.2 人
      交通事故  〃3.7 人
      自殺  〃16.1 人

    ひとは「桁数」の考えが弱いので,老婆心から「10万人あたり○人」の割合を<長さ>で視覚化しておこう:
      10万mm に対する ○mm
      104+1 × 10-3 m に対する ○mm
      100m に対する ○mm
    円周100メートルのルーレットで,幅○mm の幅のところに賭けて当たる確率というわけだ。
    当てる自信のある人は,ウィルスから必死に逃げる資格がある。


    新型コロナは,<(かか)らない>という選択肢は無い。
    考え方は,インフルエンザとまったく同じである。

      新型コロナは,発生当初「空気感染」しないとされた。
      実際,2月3日横浜寄港のクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号での感染症集団発生への対応は,この認識で行われた。
      しかし新型コロナウィルスは,「空気感染」する。
      インフルエンザと同じである。
      ただし,この馴染みのインフルエンザでも,ウィスルの「空気」存在論は不明のままである。

    新型コロナは,恐がってもしようがないものである。
    罹ったら罹ったである。
    そして罹ったときの作法は,《体の治癒能力を頼み,その働きをじゃましないようにしずかに寝ている》である。
    そして治れば,免疫が出来ている。


    しかし現代は,感染症を忌避する時代である。
    感染症に罹ったら病院に行かねばと思う時代である。

    この文化は,医療・衛生用品業界の「謀略」の賜である。
    ひとは,彼らの宣伝をすっかり信じるようになった。
    <きれい>を正しいことにし,<きたない>を忌避する。
    そしてこれの延長として,感染症に荒唐無稽な反応をすることになる。

    漫画喫茶の新型コロナ対策が,NHKニュースで紹介される。
    どんなことをやっているかというと,
      布で本の表紙を拭き(撫で),中を一回開いて撫でる
    ウィスルの存在論が滅茶苦茶なのであるが,ほぼすべての国民がこの手の存在論に嵌まっている。
    ただしこの<嵌まる>は,<信じている>と<何か格好をつくらねばならない>の半々である。
    後者は,互いに騙し合っているわけである。
    「裸の王様」の寓話の中の民衆というわけである。


    現代の「パンデミック」は,この文化を背景に()いて理解されるものになる。
    政府の感染拡大対策は,ウィルスに対するひとの荒唐無稽な存在論,感染拡大に対するひとの荒唐無稽な反応を,土台にするものになるからである。