Up 無知とは騙されること 作成: 2020-06-29
更新: 2020-06-29


    騙される理由は,単純である。
    それは,<無知>である。
    実際,知っていることに関してなら,騙されないわけである。

    ひとの<生きる>は,<専門で生きる>である。
    ひとの生存競争は,専門的能力の競争である。
    この競争は,ひとを<自分の専門外のことは知らない>にする。

    <自分の専門外のことは知らない>は,平時には問題ない。
    実際,「平時」とは,ひとが自分の専門性だけで生きられる時のことである。
    そしてこの逆が,「非常時」である。

    「新型コロナ」では,ひとは「識者/専門家」の言にすっかり洗脳されることになった。
    ウィルスについてまったく無知であれば,こうなるほかないわけである。


    非常時に試されてくるのは,教養である。
    騙しに対する免疫は,教養である。
    しかしいまは,学校でも「教養」が強調されることはない。
    「実生活で役に立つ」が,勉強の意味になったからである。

    学校教育をこんなふうに導いたのは,他ならぬ「教育学者」である。
    彼らは平時に育ってきたので,「非常時」を思うことができない。


    「教育学者」であれば,デューイの名前くらいは聞かされてきている。
    デューイは,教育を民主主義と結びつけた。
    彼は,民主主義を<組織の員が教養を持たないと立たないシステム>と見る者であった。
    教養を欠く者は,簡単に騙される。洗脳される。
    員が教養を欠く組織は,簡単に全体主義に嵌まる。

    騙す者が現れるのは,非常時である。
    ひとが浮き足立っているのに乗じて,騙す者が現れる。
    教育は,この事態を第一に想定するのである。

    デューイの思想は,もともとひじょうにラディカルである。
    平時ボケすることは,このラディカルが読めなくなることである。
    デューイの思想を「経験主義」とか「子ども中心主義」のことばでまとめてしまうは,この手合いである。


    教養は,博識のことではない。
    教養と博識の対比は,内包的 (生成的) と外延的である。
    教養の力は,転移 transfer である。
    生成する能力なので,これまで関接してこなかった分野にもさほど苦もなく入って行けるのである。
    対応力とは,この力を謂う。

    「新型コロナ」の洗脳・全体主義に対抗できるものは,教養である。
    洗脳・全体主義に席巻された今日の様は,学校教育惨敗の様である。
    「教育学者」にこの認識をもってもらいたいところだが,まあ無理である。