| Up | 結語:主体は生成に遅れて現れる ――回収のための形式として | 作成: 2025-12-19 更新: 2025-12-19 |
本節を通して明らかになったのは、 主体が生成の起点でも、 統御者でもない、という事実である。 主体は、 感覚が集束し、 記憶が連なり、 欲望と判断が生起し、 再帰が一定の強度をもって回ったあとで、 はじめて要請される。 主体は、 生成を起動しない。 主体は、 生成を回収するために遅れて現れる。 この遅れこそが、 主体の本質である。 主体とは、 出来事が起きてしまったことを 「一つのことだった」と語るための 形式であり、 生成そのものではない。 それにもかかわらず、 主体は強く実体化されやすい。 それは、 回収の形式が 原因の位置に滑り込むからである。 だが、 主体をこの遅れの位置に 正しく据え直すならば、 主体はもはや 生成を縛る重荷ではなくなる。 主体は、
責任を引き受け 言語化と共有を可能にする そしてこの装置は、 次の段階で必然的に 外部へと委ねられていく。 主体は、 言語へ、 社会へ、 他者へと分配され、 自己の内側には 留まりきれなくなる。 このことが、 次節 1.4「主体の外部化:言語・社会・他者」 で扱われる主題である。 主体は、 生成に遅れて現れ、 生成に押し出されるかたちで 外部へと開かれていく。 ここにおいて、 主体はもはや 「わたしの中にあるもの」ではない。 主体は、 生成が世界と接続するための 通過点となる。 |