Up 経済崩壊が先──原発論議の無意味 作成: 2016-04-24
更新: 2016-04-28


    原発の危険の論議は,いまの生活を固定した論議である。
    すなわち,いまの生活がこのまま続くことを仮定した論議である。
    そこで,「原発使用済み核燃料の10万年監視」のような物言いが出てくるというわけである。

    100年のうちに経済がすっかり崩壊することがわかっているとする。
    このとき原発の危険の論議をするかというと,しない。
    目前の全滅危機は,諸々の危険の論議をすべて無用にする。


    《100年のうちに経済がすっかり崩壊する》は,仮定の話ではない。
    数学・物理並みの単純論理だと,こうなる。


    人は,いま,商品経済の最終局面として,資源蕩尽と人口増大の螺旋運動に入っている。
    これは,指数関数のグラフに似た上昇曲線を描く:

    この事態に対し,行政はつぎの二つを策にする:
      1. 景気をよくする
      2. 子どもをつくらせる
    実際,これが右上がり成長を保つ形になる。

    そしてこれは,螺旋運動の加速である。
    実際,螺旋運動の系で生きる形は,<螺旋運動を加速する>である。
    行政は,螺旋運動から脱けることを仕事にするものではなく,螺旋運動の流れに棹さすことを仕事にするものである。


    人は,いま,死ななくなっている。
    これは,<死なせない>が絶対善になったことと合い俟っている。

    人は,医療と介護で,長生きする。
    100歳を超えることが,ふつうになる。

    この長生きは,度を越した長生きである。
    度を越した長生きは,介護で生かされる。
    度を越した長生きは,痴呆になる。
    この長生きを,現役世代が負担する。

    現役世代の生活は過酷になる。
    景気がよくなるどころではない。
    子どもをつくるどころでない。

    こうして,人口構成グラフは,つぎのようなキノコ型になっていく:

    資源蕩尽・人口増大螺旋運動のグラフと人口構成グラフ (現役世代負担グラフ!) は,どう折り合うことになるか。
    数学・物理並みの単純論理だと,「経済崩壊」で折り合う。

    「経済崩壊」は,そんなに先のことではない。
    100年もあれば十分といったところである。


    「経済崩壊」は,人の系の崩壊そのものである。
    この崩壊は,人の定めである。
    <死なせない>を絶対善にしたときが,崩壊を自身の定めとしたときである。

    実際,<死なせない>を絶対善にすることは,自分が生物であることの背理である。
    人は,生き方として,生物であることをやめた。
    生物をやめるとは,滅亡を引き受けるということである。

    ただし,これは<潔さ>ではない。
    流されてこうなったということである。



    参考:菌の増殖
      菌を,新しい培地に接種する。
    菌数は直ちには増えない。
    即ち,成長期の前に,準備期がある。
    そして,成長期に入る。
    菌数が指数関数的に増える。
    成長は,やがて止まる。
    菌数が横這いの定常期に入る。
    そして,衰亡期に入る。
    菌数が指数関数的に減少する。
    成長が止まるのは,成長がつぎの状況をつくり出してしまうためである:
    1. 栄養分 (生活資源) の枯渇
    2. 自身の代謝廃物の蓄積で,生活環境が劣悪化
    そして,この状況に至れば,以降集団は螺旋的に衰亡していく。