Up 機能幻想「審査」 作成: 2016-04-04
更新: 2016-04-04


    原発の議論では,「安全チェック機関」がいろいろな形でテーマになる。
    しかしこの種の「審査」は,幻想である。
    危険は,「審査」ではわからない。

    危険は,トラブルが起きてわかる。
    実際,原発は,潜在的トラブル箇所満載からスタートする。
    原発の進化は,トラブルに際してはこれをフィックスするということの積み重ねである。
    トラブルのもとは,一つひとつ直していくしかない。
    そして,トラブルのものは,トラブル発生によって初めて発見に至るというものである。

    危険は,「審査」でわかるものではない。
    危険は,「運用」でわかるものである。

    ひとは,危険を「審査」によってわかるもののように思っている。
    これは,「審査」の存在幻想である。
    「審査」とは,そのようなものではない。

     註 : 「安全基準」は,家電機器だと「仕様」に当たる。
    「安全基準」が安全を保証すると思うのは,「仕様」が仕様通りの動作を保証すると思うのと同じである。
    機器のトラブルは,機器が仕様通りに動作しなくなるとか,仕様通りの動作に意味がなくなるというものである。
    トラブルは,「仕様」とはカテゴリーが別である。
    同様に,危険は,「安全基準」とはカテゴリーが別である。
    世界一きびしい安全基準」と「安全」をつなげるのは,単純に「カテゴリー・ミステイク」である。


    審査する者は,その道の専門家/学者であっても,その機能性において「役人」である。 (「御用学者」を考えるとわかりやすい。御用学者」は「役人」である。)
    トラブルのフィードバックとして危険を同定するのは,「現場作業者」である。
    「現場従業員」と「役人」は,まったく違うものである。
    「役人」は,「現場従業員」の危険同定を回収するのみである。
    「現場従業員」より先に危険を同定する者ではない。

    実際,「審査」機関は,アリバイづくりのための機関である。
    「審査」は,役割行動である。
    「審査」を担当する者は,役割行動を引き受ける者である。

    「審査」のこの実態に対し「がっかり」の思いをもつのは,了見違いである。
    「審査」とは,もともとこういうものである。
    「審査」の現前は,「審査」の機能性の実現に他ならない。