Up | 集団枯死 : 要旨 | 作成: 2016-03-16 更新: 2016-03-19 |
極相の頂点種属になった集団は,自家中毒し,集団死する。 俗流エコロジストは,「○○林の集団枯死」に対し,原因として「酸性雨」の類を発想する。 「○○林の集団枯死」は,酸性雨を原因とするものではない: 酸性雨原因説をつくる者は,現前の生物群集を「定常」と思い込んでいる者である。 現前を「定常」と思っている者は,現前の変化を「異変」と受け取り,「異常」と定めてしまう。 現前を「定常」と思う者は,「遷移」の考えが無い者である。 酸性雨原因説をつくる者は,「遷移」の考えが無い者である。 また,酸性雨原因説をつくる者は,「悪者論」を体質にしている者である。 悪者論を用いる者は,自分を<悪者の存在に気づいている賢者>にして,<悪者の存在に気づいていない愚者>を啓蒙・教育しようとする。 併せて,悪者を指摘・告発し,社会がこれを退治するように仕向けようとする。 これは,イデオロギーである。 そして,この類のイデオロギーが,酸性雨原因説の中心勢力になっている。 災厄に対する人の思考法で,科学以前のものは,悪者論である。 悪者が災厄を起こしているという思考法である。 悪者論は,科学の時代にも,弱まる気配はない。 人は,イデオロギーで生きる生き物である。 人のイデオロギー的体質に対しては,科学は何の効力も持てない。 枯死は,水が上がらなくなった結果である。 枯死の場合の「水が上がらない」は,「根がダメになっている」である。 「根がダメになっている」は,ロジックとして,つぎの2通りである:
集団枯死は,「根がダメになる」が集団的に起こった結果である。 「集団的」であるから,原因は土壌の変化である。 土壌を変えるものは,植生自身である。 特に,この植生で優勢なもの,即ち集団枯死した樹木である。 この樹木が「土壌を変える」としてできることは,いろいろ考えられるにしても,「排泄」である。 排泄物は,落葉・落枝であり,「リターフォール」と称される。 この排泄物が,土壌を変える。 そしてこの「土壌の変化」の中に,「木と根菌の共生関係が壊れる」が含まれる。 以上の意味で,集団枯死は,系の自家中毒の現象である。 「○○林の集団枯死」は,系の自家中毒の現象である。 極相 (安定相) は,集団の自家中毒が進行している相である。 自家中毒になった集団は,「集団枯死」の格好で死ぬ。
「集団枯死」は,生態系の死ではない。 生態系にとっての「集団枯死」の意味は,「生物群集の遷移のリセット」である。 「自家中毒」の「毒」は,自身の排泄物である。 生態系は,排泄物連鎖である。 盛んな集団は,排泄物を大量に出す集団である。 この大量排出の排泄物に,排泄物処理が追いつかなくなる。 この「自家中毒」は,ロジックとして,つぎの2通りである: a. 根腐れ
これは,「落ち葉掻き/林床管理」のロジックである。 積もり過ぎた落ち葉は,木の根腐れを招き,木は衰弱する。 b. 菌根菌との共生関係が壊れる
あるいは,「窒素固定の活性化」から「根腐れ」を導くロジックも立つ: 樹木の大量枯死のプロセスが,以上ロジックとして示したものうちののいずれであるのか──あるいはそれ以外であるのか──は,わかっていない。
大気汚染原因説もあるが,これは酸性雨原因説と同類である これ以外の原因説はといえば,現状では虫媒介感染症原因説である。 ただし,虫媒介感染症原因説は,だれにもわかるように,派生事態を原因に取り違える思考法の産物である。 実際,樹木の生態については,まだほとんど何もわかっていないというのが,関連諸科学の現状である。
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