Up | 「自然との共生」幻想 : 要旨 | 作成: 2016-05-07 更新: 2016-05-14 |
しかし彼らは,自分自身では「自然との共生」と何ら係わりをもたない者である。 彼らは,アウトドアを遊んで,「自然との共生」を唱える身分になったと錯覚する者たちである。 「自然との共生」を実践している者はいない。 実際,「自然との共生」を実践できる者はいない。 人の<生きる>は,<商品経済に生きる>である。 人は,隅から隅まで商品経済に負った生活に,べったりでいる。 いま人間は,商品経済に生きることを宿命にした生き物になっている。 そして,商品経済に生きることを宿命にするとは,いわゆる「自然破壊」を宿命にすることである。 実際,商品経済に生きることは,「自然破壊」をすることである。
「自然破壊」をしている者が「自然との共生」を唱えたら,それは自家撞着である。 商品経済は「自然破壊」である。 商品経済に生かされている者は,「自然破壊」をする者である。 この者が「自然との共生」を唱えたら,それは自家撞着である。 「自然との共生」をほんとうには考えたことのない者が,「自然との共生」を唱える自家撞着をする。 「自然との共生」をほんとうには考えたことのない者が「自然との共生」を唱えるとき,その「自然との共生」は幻想である。 翻って,「自然との共生」とは,どのようなものか。 生き物一般の有り様が,「自然との共生」ということになる。 生き物は,エネルギーの糧を「狩猟採取」で得ている。 「自然との共生」は,「狩猟採取」が含意になる。 自然は,生き物にとって食べ物が豊かにあるところではない。 生き物が自分の食べ物の確保に努めるダイナミクスは,「なわばり」「ニッチ」を現す。 食べ物が乏しいところほど,一個体が必要とするなわばりは広くなり,ニッチの模様が複雑になる。 「自然の豊かさ」は,集団の個体数に依存する。 自然が豊かなうちは,個体数が増える。 個体数は,自然の資源が「生きるのにカツカツ」になるまで増える。 自然の資源が「生きるのにカツカツ」の個体数で,安定する。 そしてこのとき,集団は最適の狩猟採取方法を実現している者になっている。 なわばり・ニッチは,「最適の狩猟採取方法」の実現態である。 「狩猟採取」は,動物の狩猟と植物の採取である。 このときの動物と植物の違いは,動くと動かないである。 動く動物の捕獲は,不安定である。 しかし,動かない植物の採取も,安定したものではない。 先ず,植物は,基本,動物に食べられないよう毒を蓄えている。 また,「食べてだいじょうぶ」は,「食べものになる」を意味しない。 セルロース (植物繊維) を消化吸収できない人間にとって,葉菜はカロリーがとれる食べものにならない。 植物からカロリーをとれるのは,デンプン質・糖質が蓄えられている部位 (「実」「芋」) である。
夏の時期は,植物に食べられるところが無くなる。 熊は,夏を飢餓状態で過ごす。 人間には,このまねはできない──餓死してしまう。 また,植物には,不作の年がある。 ──気候による不作と,植物のバイオリズムとしての不作がある。 こうして,「狩猟採取で生きる」は,つぎの二つが条件になる: 「狩猟採取で生きる」は,カツカツの生き方である。 実際,「狩猟採取生活」は,文字通りの意味では成り立たない。 「狩猟採取生活」と称しても,そこではなんらかの形の「耕牧」が営まれており,また「頭減らし」が行われている。 |