Up 「民間銀行」の消去 : 要旨 作成: 2020-11-07
更新: 2020-11-07


    企業は,資金が要る。
    その金は,民間から集めることになる。
    こうして企業は,「お金を預けてくれたら利息をつけますよ」部門をつくる。
    これが民間銀行の始まりである。

      念のため:
      民間銀行の始まりは,「両替商」ではない。

    わかりやすい例が,財閥が身内の企業のためにつくる銀行である。
    三井財閥は三井銀行を,三菱財閥は三菱銀行を,住友財閥は住友銀行を,それぞれつくるというわけである。


    戦後に財閥が解体され,財閥は企業グループになる。
    さらに,企業全体の中での企業グループの再編が続く。
    企業グループの再編は,基幹テクノロジーの加速的進化と経済のグローバル化が合わさって,激動する。
    企業グループの再編は,民間銀行の再編を促す。
    民間銀行はここずっと再編劇で混乱してきており,これからも暫く混乱することになるが,それは企業グループの再編激動に翻弄される立場だからである,

    民間銀行の再編は,銀行個別の存在理由を薄める一方となる。
    一般預金者からすれば,銀行はもともと特定銀行を択ぶ必要のないものであり,地の利や信用で択んできた。
    「地の利」は,通信技術がこれを無意味にしていく。
    「信用」は,銀行の淘汰と寡占に進む。


    中銀は「銀行の銀行」と言われるが,逆に見れば,民間銀行は中銀の過剰である。
    この過剰は,電子決済の社会浸透度の増大に伴って,曝露されてくる。
    過剰は,<淘汰>のダイナミクスによって,消滅する。
    その消滅の形は,「中銀国民口座」ということになる。

    国民番号 (「マイナンバー」) が定着するとき,これは「国民口座番号を兼ねるのが便利」というものになる。
    現在,国民は自分のポータルを与えられている (「マイナポータル」)。
    中銀口座は,この中に置くだけで済む。

    現在の中銀の口座は,銀行を対象にしている。
    各銀行は,客から集めた預金全額の一定割合を,準備預金としてこの口座に入れておくことになっている。
    金融政策の中身は,政府がこの準備預金にオペレーションして,社会の金の流れをコントロールしようというものである。
    これは,迂遠なコントロールである。
    「中銀国民口座」になると,ダイレクトなコントロールが実現される。

    国民は,中銀国民口座の自分の口座に,最低「租税準備金」として預金する者になる。
    政府は,この口座から直接徴税する。
    財政出動での手当は,この口座に直接振り込む。
    国民は,便利・信用から,自分の預金をこの口座に集約するようになり,遂には専らにするようになる。
    ここに至って,世の中の金の流れは,国民口座の金利設定でコントロールするものになる。


    民間銀行が民間から預金を集めるのは企業への融資のためであるが,「中銀国民口座」だとこれはどうなるか。
    これは,(「最後は人!」となる部分を除いて) AI が担うことになる。
    国民口座は,それ自体,個人情報・組織情報のビッグデータである。
    これを解析すれば,企業の状況がはっきり浮かび上がる。

    これは,AI に人を支配させるという話ではない。
    AI もこの分野だと,人とどっこいどっこい,あるいはそれよりはましだろうという話である。
    ひとは心情的に人間の優位を立てたく思うが,このときは人の愚劣をことさら見ないようにしているわけである。
    人は,簡単にムードに流され,洗脳され,全体主義に同調する。
    簡単にムードに流され,洗脳され,全体主義に同調してしまいがちな部門の場合は,人よりAI の方がましになるのである。


    通貨原論は,こうして「民間銀行」を消去する。
    ──原論の立場は,「空回りしている歯車は,除く」である。

    民間金融企業として残るのは,おおよそつぎの3類である:
    • 「保険」を商品にする
    • 「投資」を商品にする
    • 「バーチャル通貨取引・決済サービス」を商品にする
    これに対する選好は人様々となるからである。

     註: 中銀通貨決済が中銀国民口座振替の電子決済になるとき,決済サービス事業者が無用になる。
    決済アプリが,情報端末の標準装備になるからである。


    現前の通貨理論が「民間銀行」を中心に据えた理論になっているのは,論者が民間銀行を疎かにしてはならない立場にいるからである。
    わたしの場合だと,大学現職で数学教育学を担当していた時分は,学校および学校教員を疎かにする論はつくらないわけである。
    しかし思想では,「数学学習にとって,学校および学校教員は仕方なく存在するものであり,中抜きできるならそれに越したことはない」があった。
    インターネットが大学に入った年度から『図説「数学教育」』を始めたが,それはこの思想の実験のつもりであった。