Up 課税 作成: 2020-12-01
更新: 2020-12-01


    国の財政は,「収支」ではない。
    「税収が収入で,この収入を支出に回す」というのではない。
    実際,毎年,支出額は収入額を上回っている。
    その差額は,民間からの借金ではない。

    政府が 10兆円支出したいときは,自分が自分に 10兆円を貸す形にして 10兆円を使う。
    このときの「自分が」をカモフラージュするのが,中央銀行 (日本なら日銀) である。
    この方式で,政府は自分の好きなだけ支出できる。

    このときの政府の「自分の好きなだけ」は,自分が得したいための好きなだけではない。
    自分の好きなだけを要求してくる民間にできるだけ応じてやる──ということである
    民間が 50兆円求めてくるのに対しこれを値切って 10兆円支給する,という具合である。


    では,税の意味は何なのか?
    当然この疑問になる。

    税の意味は,いまの財政を見てもわからない。
    税は,人の系の進化につれてその意味が変化し,そして意味を無くすに至る。
    税の意味を知るには,自給自足の人の系まで溯らねばならない。


    自給自足の人の系では,当然,税は生じない。
    (位置づく場所のない存在は,生じない!)

    この系はつぎに,<員を外敵から守る>の専門職 (「武士」) を置く系へと進化する。
    漁猟採集の移動生活であれば,《弱い外敵に対してはこれと戦い,強力な外敵に対してはこれから逃げる》となるから,武士は生じない。
    武士が生じるのは,生活が定住生活になるときである。
    特に,農耕を営むようになるときである。
    武士は,彼らの生活の糧を生産を専らとする者から与えられる。

    武士は,外敵が強大であるほど,強大化する。
    そして武士は暴力集団であるから,しだいに生産者の上に立つようになる。
    武士の長は,領主化する。
    このとき,武士の生活の糧を生産者が自分の生産物の中から分け与える関係は,「租税」になる。


    領主の領地保全の考えは,「富国強兵」になる。
    「富国強兵」の方法は,生産者をより働かせることである。
    こうして,生産者を壊してしまわないぎりぎりのレベルまで,税を高くする。

      人権イデオロギーは,これを「搾取」の話にする。
      「自分の贅沢のために搾取する」というわけである。,
      これはデマゴギーである。
      為政者の考えは「富国強兵」である。
      「贅沢」と見えるものは,自分を強く見せようとする虚勢である。
      為政者は余裕で立っているのではなく,つねにぎりぎりの(てい)で立っている。
      為政者とは,外にも内にも敵をもち,その影につねにおどおどしていなければならない存在である。


    税負担は,生産技術を高める動機づけになる。
    こうして生産性が高まる。
    生産量が過剰になり,これは新しい生業──二次産業──を現すことになる。

    新しい生業の発生は,市場の発生を伴う。
    生活の糧は自分がつくったものと交換して得るのみであり,そしてこの交換は,一次生産者・二次生産者がそれぞれの生産物を持ち寄る場所を設けないと無理だからである。

    領主は,二次産業にも税を課すことを考える。
    その税は,生産物ではあり得ない。
    こうして,通貨が現れることになる。
    ──通貨の契機は,市場で自ずと現れることになる約束手形と,領主の課税,ということになる。


    一次産業の技術が向上し,生産性が,ますます高まる。
    その余剰生産物を生活の糧にする二次生産者が増加する。
    経済は貨幣経済化し,通貨が経済を回すようになる。
    この段になると,領主は通貨の発行権を立て,これを自分のものにするようになる。

    通貨を自分で運営するようになると,通貨の記号性 (幻想) が見えてしまう。
    はじめは通貨を絶対の価値尺度と信じたが,どうもそんなのではなさそうだというので,物としての通貨にこだわらなくなる。

      貴金属貨幣を捨て,金本位制を捨て, 「管理通貨制」に至る,というのが歴史の流れである。


    この段になると,税には「領主の収入」の意味がなくなる。
    税収が支出に回るわけではないからである。
    実際,物を離れて記号になった貨幣は,「使い回す」というものにはならない。
    ──「金に色はついていない」とは,このことを指すことばである。

    税に「領主の収入」の意味がなくなるとき,税の意味として残るのは,税の最初の意味である:
      「これを納めるためにひとは働かねばならない」

    しかし貨幣経済は,この意味も萎ませる。
    「給料をもらうために働かねばならない」が個人の「働かねばならない」になり,「員に給料を払うために働かねばならない」が法人の「働かねばならない」になる。


    今日,課税に意味が残るとすれば,「所得格差を減らす」である。
    高収入者の収入を,「税」の名目で減らす。
    ただし税負担は「国民の義務」にしないと文句が出るから,低収入者に対しても収入を減らすことをやるが,この場合は少なめに減らす。

    しかし,所得格差の調整は,もう「税」の意味ではない。
    これを税に見せ掛けるのは,騙しである。
    実際,「税」のことばを用いると国民が受け入れてくれる (騙されてくれる) から,税に見せ掛けるわけである。


    こうして,課税は意味不明のものになってきている。
    課税の意味は,人の系の進化に伴い変わる。
    人がつくるものは,これが意味をもつ時節に生じ,空回りするものに変わっていき,うやむやに消えていく,というライフサイクルになる。
    そして課税は,しばらく前から空回りの時節に入っているというわけである。