Up <自己実現>を生き方にしてしまった生き物 作成: 2020-12-10
更新: 2020-12-19


    生き物は,つねにギリギリの生活をしている。
    生き物の1日の大半は,餌 (栄養物) をさがし回ることに費やされる。

    どうしてこうなのか。
    生き物の種は,共生の限界まで繁殖するからである。
    もし余裕が生ずれば,その余裕を尽くすまで繁殖する。
    種の現前は,個体の<生まれる>と<死ぬ>が数で釣り合っている状態である。


    いまは聞くことのない昔のことばに,「貧乏人の子沢山」というのがあった。
    これは人の,<生き物>としての相である。
    現代は,「金持ちの少子」である。

    少子化現象に対し,政治家が「余裕があれば子どもをつくる,子どもをつくらないのは余裕が無いからだ」のリアクションをする。
    政治家は,阿呆の一つの型である。
    その阿呆は独特な形で現れることになるが,上のリアクションはこれのうちである。

    ひとは,余裕ができると,繁殖しなくなる。
    なぜか。
    余裕ができると,<自己実現>を生き方にするからである。

    自分の生は,一度きりの生,限られた生である。
     これは,意味のあるものにしたい。
     時間・エネルギーは自分のために使いたい,他のことに奪われたくない。
     自分の時間・エネルギーを奪う最大のもの,それは子どもの養育だ。



    子どもを養育する生物種は色々あるが,どれも子どもの養育に費やす時間・エネルギーはハンパでない。
    身近にはスズメやカラスがいるので,それを観察してみるとよい。
    カラスだと,巣作りから野外育雛終了まで約半年間が繁殖期であり,卵が孵ってからはずっと子どもにかかりっきりである。

    <子どもにかかりっきり>の生き方は,現代人には無理である。
    翻って,<子どもにかかりっきり>をやりこなしている生き物は,<自己実現>の概念と無縁であるから,これができるわけである。

     註: 厳密には, 「無縁」は言い過ぎである。
    1回の繁殖行動で自分も死んでしまう生き物以外は,繁殖行動は余力 (<自己実現>) を残したものということになるからである。
    実際,死期が来た木 は,最後の年──もう余力を残す必要のない年──に花をたくさん咲かせる。
    「生き物」には, 「命に危険が迫るといつも以上に子どもをつくる」の含意がありそうである。


    経済学は欠陥品であるが,その最大の欠陥が,「ひと」を捉えられていないことである。
    いまの経済学が「ひと」と定めねばならないものは,「<自己実現>を生き方にしてしまった生き物」である。

    <自己実現>を生き方にしてしまった生き物には,「豊か/貧しい」「有益/無駄」は一般概念として立たない。
    「豊か/貧しい」「有益/無駄」が一般概念として立たないということは,従来型経済学は無効ということである。

     Cf. 「豊かさ」のことばをいちばん使ってきた分野は,学校教育である。
    従来型学校教育は無効である。