Up 「デザインとは何か?」の論考の位置づけ 作成: 2008-07-08
更新: 2008-07-08


    「デザインとは何か?」の論考は,論考の目的/スタンスがどうであり,そしてどのような方法論で進めるかによって,いろいろな形のものになる。

    本論考は,「デザイン」を「いまの世の中をグラウンドとするデザイン」のことにする。 それは「商品経済社会をグラウンドとするデザイン」であり,したがって「商品デザイン」である。
    そしてこの「商品デザイン」を,それのテロ性において主題にする。


    テロ性は,商品デザインの本質であり,商品経済 (市場原理主義) の本質である。
    国家・社会は,商品経済の解発 (release) と制御の両方を意識的・無意識的に行って,これのバランスをとる。

    <商品経済の制御>は,これを役割とする装置が興り・働くという形で,実現されている。
    この装置にはいろいろある:
      国家 (公安) ──<共生>の担保
      公教育──<多様な個>の担保
      学術──<真理>の担保

    <商品経済の制御>装置は,商品経済社会の中の「聖域」として,商品経済に侵されることから守られる。 この保護の見返りが,装置が<商品経済の制御>を自分の本分としてきちんと務めることである。


    しかし,<俗>は<聖>を自分の側に取り組むことを,つねに狙う。
    <俗>にとって,<聖>には自分に無いものがあり,そしてそれが利用 (消費) できるもののように見えるからだ。 そして,<俗>を生かすために<聖>が立てられているというメカニズム (すなわち,<聖>の意味) については,考えが至らない。

    こうして「商品デザイン」は,公教育に侵出し,学術に侵出する。

    この侵出に対し,公教育や学術は<商品経済の制御>装置としての役割を果たすことができていない。 それどころかこれを「進歩」「改革」のように受け取っているのが,現状である。
    よって,「商品デザインとは何か?」を考えられる公教育・学術の知性が,問題になる。

    本論考は「商品デザイン」をそれのテロ性において主題化しようとするものであるが,公教育・学術の知性の現状についての問題意識がこの主題化の直接の契機になっている。
    実際,本論考は,つぎの想いで導かれている:

    <商品経済の制御>装置としての公教育・学術は,自分の役割意識から,「商品デザイン」のテロ性の学術的論考へと自ずと向かうことになる。