Up おわりに 作成: 2010-01-07
更新: 2010-01-07


    本論考の主調は,「ディジタルは,べつに使わなくてもよい」であった。 ただし,これは,「ディジタルは,べつに知らなくてもよい」ではない。 ディジタルを知らなければ,それの要・不要もわからない。
    そして言うまでもなく,今日,ディジタルは必修事項である。 教員であれば,なおさらである。

    教員がディジタルを必修にするときの形は,「ディジタル教材の作成」が自然である。
    さて,ディジタル教材をつくる者は,実際に使えるよい教材をつくろうとする。 そして,実際に使えるよい教材の作成を開始すると,実際に使えるよい教材を実現しているつもりになる。 そこで,つくった当人にとって,出来上がりはつねに「実際に使えるよい教材」になっている。

    事実は,とんでもなくおかしなものを作っている。
    しかし,自分では,とんでもなくおかしなものを作っていることがわからない。

    とんでもなくおかしなものを作っていることは,実際に授業で使って失敗してもなお,わからない。 なぜなら,今度は,授業で失敗していることがわからないからだ。 逆に,「うまくいった」と思っているかも知れない。

    これは,「ひとは自分に対する評価を甘くする」という問題ではない。 <よい・わるい>がわかっていないという問題である。
    実際,<よい・わるい>がわかるのは,専門性である。 そしてこの専門性は,浅い専門性ではなく,深い専門性である。
    <よい・わるい>がわかるためには,修行を積まねばならない。

    「ディジタル教材」を理解することは,授業を理解しメディアを理解することである。 そして,これに至る道は,専門性の陶冶である。 ノウハウの勉強ではない。
    よって,本テクストは,ノウハウは扱っていない。 専ら,基本的な考え方・留意点と思われるところを述べた。
    本テクストは「ディジタル教材」の超入門書である。