Up はじめに──本テクストの趣旨 作成: 2010-01-05
更新: 2010-01-06


    授業の「うまくいった」は,たいてい勘違いである。
    授業がスムーズにいったときの「うまくいった」の思いも,同様。

    ディジタル教材を使うと,授業がスムーズに進む。
    授業者は,「うまくいった」と思う。
    事実は,これのまったく逆である。

    授業がスムーズに進むのは,どうしてか?
    理由は単純で,<教える>をやっていないからである。

    授業がたいへんなのは,<教える>をやるからである。
    ディジタルは,<提示する>ないしせいぜい<伝える>までのメディアであって,<教える>メディアではない
    <教える>は,<提示する・伝える>以上のことである。

    授業をよく知らない者が授業にディジタルを使うと,きまって,<教える>がない授業をやってしまう。
    授業にディジタルを導入できる者は,授業を相当知っている者である。 さらにその上で,ディジタルの分限を承知するものでなければならない。


    「授業とディジタル」の標題でつくられる論は,だいたいが,ディジタルの使用を推奨する論である。
    そこから,ディジタルを授業支援メディアと受け取り,これを使えばよい授業ができるようになると考える者も,現れてくる。 しかしこれは,とんでもない間違いである。

    そこで,「ディジタルの分限」を考えることを中心にしたディジタル教材論を,つくることにした。 これが,本テクストである。
    本テクストは,以下のことを論ずる:

    1. ディジタルは,<教える>メディアではない。 しかし,教えたつもりにさせるメディアである。

    2. 教員がディジタルに向かうときは,「なぜディジタルか?」をよく考えないで,ディジタルをやってしまう。 当人は考えているつもりでいても,考えの浅いところで思考停止している。 そして,とんでもなくおかしな授業をやってしまう。 しかし,当人は,「うまくいった」と思う。

    3. ディジタルを授業で使うときは,よくよく考えた上でなければならない。 ディジタルには,分限がある。 そして,ディジタルの分限を知ることができるためには,授業をよく知っていなければならない。

    4. ディジタルの分限を考えることは,同時に「授業とは何か?」を考えることである。 よって,「失敗学」の趣でディジタルを実践することは,意味がある。 しかし,失敗とは,生徒に被害を与えることである。 このことを,よくよく認識していなければならない。