Up | 「<つくる>をさせる」に関して | 作成: 2008-07-09 更新: 2010-01-06 |
対象のつくり方を,教えている。 実際,学問は,対象の構造化を対象理解の意味にする。 このとき,対象を構造化するとは,対象を<つくられるもの>として解釈するということである。 授業は,<つくる>を指導する。 「わかる」とは,<つくる>がわかること,自らつくれるようになることである。 特に,教材は,<つくる>を行わせるためのものである。 <つくる>を行うのは,カラダである。 カラダは,つぎのことを学習して,<つくる>に至る:
カラダの使い方・力の入れ具合 時間の用い方 ディジタルは,バーチャル・リアリティをやる。 身体性・時間は,バーチャルに加工されたり,あるいは捨象される。 また,ディジタルは,できあがりを見せるメディアである。 <つくる>をとばしている。 バーチャル・リアリティやできあがりは,<つくる>を示していない。 しかし,<つくる>を既に知っている者は,それのバーチャル・リアリティやできあがりの中に<つくる>も示されている,と錯覚する。 経験の浅い教員は,こんなふうである。 そこで,バーチャル・リアリティやできあがりを生徒に示すことが<教える>になると思ってしまう。 バーチャル・リアリティやできあがりを見せる授業をやって,<わからせる>をやったつもりになる。 つぎのように勘違いするわけだ:「生徒は<つくる>を見ている。」 授業は,<教える>をする。 <教える>は<わからせる>であり,<わからせる>は<つくる>をわからせるということである。 そこで,授業は,生徒に<つくる>をさせる。 この「<つくる>をさせる」に対立するのが,「バーチャル・リアリティやできあがりを見せる」である。 そして,ディジタルを使えば,このメディアの特性として,「バーチャル・リアリティやできあがりを見せる」になる。 「バーチャル・リアリティやできあがりを見せる」は,授業でも行う。 ただし,それは,<つくる>が既にわかっている場合である。 すなわち,<つくる>の外延 (結果のいろいろ──いろいろな例) を知らせるときに,「バーチャル・リアリティやできあがりを見せる」を用いる。 例えば:
「これは,教養として知っておくのがよい。」 生徒が<つくる>に取り組むのは,<つくる>がわかるカラダになるためである。 カラダは難物である。 しかし,経験の浅い教員は,カラダを簡単に考えてしまう。 そこで,ディジタルに向かいやすい。 逆に,経験を積むほどにディジタルと距離をおくようになる。 しかし,経験を積んだ教員も,コンピュータを使ったプレゼンの形で授業をするときには,「見せればわかる」調をやってしまう。 ディジタルは,<つくる>を行わせるメディアではない。 この意味で,<教える>メディアではない。 |