Up | おわりに | 作成: 2008-02-06 更新: 2008-02-06 |
教員の意識改革を行い、本学の教育目標を達成するために、教育の自己評価を行う。 この文言をつぎのように一部変更すると,これは「法人化」の国立大学に対する「大学評価」の文言になる:
国立大学の意識改革を行い、わが国の教育目標を達成するために、教育の国立大学自己評価を行う。 「法人化」になって国立大学が課題化するようになった「生涯学習教育」は,この文言の「社会貢献」から出てくる。 「教育と研究と社会貢献は大学の三大責務であり、どれか一つだけを重視することはできない。」のオリエンテーションは,つぎのロジックによって退けられる:
「教育と研究」が「社会貢献」である。 (自分の持ち分をきちんとやることが「社会貢献」である。──そのようなものとして,国立大学はつくられた。) 「教育と研究」を「社会貢献」とする論を自ら立てられずに「社会貢献」を別立てするから,邪道を歩む羽目に陥ってしまう。 本論考は,このロジックをとる立場から,教員養成課程における「生涯学習教育」の意義を論じてきた。 すなわち,「生涯学習教育」は「教育と研究」の中に位置づく限りにおいて意味があるとし,そのような「生涯学習教育」がどのようなものになるかを一般的に考察した。 併せて,現実の「生涯学習教育」がこれと比較してどうであるかを,「教職大学院」「免許状更新講習」「一般公開講座「授業公開」を取り上げて,見てきた。 「法人化」の国立大学は,「大学評価」に狼狽して,「生涯学習教育」に対する真面目なアプローチを捨ててしまう。 大学執行部は,実績の速成を政治的に考えることを「正しい」ことだと思い,「教育と研究」と「社会貢献」のカテゴリー問題をうっちゃったまま,「生涯学習教育」の施策を思惑先行で進める。 この結果は,「空虚な生涯学習教育」。 大学教員の方は,この<空虚>を肌で感じる。 このような状況で,大学教員がとるべきスタンスは? 大学教員が本領とする学術の方法論に立ち返ることである。 そしてそこから,「生涯学習教育」の真面目な論を再び起こすことである。 |