Up おわりに 作成: 2008-02-06
更新: 2008-02-06


    北海道教育大学の教育研究評議会が作成した『教育実績の自己評価の導入』(2007-12-12) に「教育実績の自己評価の意義」がつぎのように述べられている:

      教育と研究と社会貢献は大学の三大責務であり、どれか一つだけを重視することはできない。
      教員の意識改革を行い、本学の教育目標を達成するために、教育の自己評価を行う。

    この文言をつぎのように一部変更すると,これは「法人化」の国立大学に対する「大学評価」の文言になる:

      教育と研究と社会貢献は国立大学の三大責務であり、どれか一つだけを重視することはできない。
      国立大学の意識改革を行い、わが国の教育目標を達成するために、教育の国立大学自己評価を行う。

    「法人化」になって国立大学が課題化するようになった「生涯学習教育」は,この文言の「社会貢献」から出てくる。


    教育と研究と社会貢献は大学の三大責務であり、どれか一つだけを重視することはできない。」のオリエンテーションは,つぎのロジックによって退けられる:

      あなたがたは,カテゴリー・ミステイクをしている。
      「教育と研究」が「社会貢献」である。
      (自分の持ち分をきちんとやることが「社会貢献」である。──そのようなものとして,国立大学はつくられた。)
      「教育と研究」を「社会貢献」とする論を自ら立てられずに「社会貢献」を別立てするから,邪道を歩む羽目に陥ってしまう。


    本論考は,このロジックをとる立場から,教員養成課程における「生涯学習教育」の意義を論じてきた。
    すなわち,「生涯学習教育」は「教育と研究」の中に位置づく限りにおいて意味があるとし,そのような「生涯学習教育」がどのようなものになるかを一般的に考察した。
    併せて,現実の「生涯学習教育」がこれと比較してどうであるかを,「教職大学院」「免許状更新講習」「一般公開講座「授業公開」を取り上げて,見てきた。

    「法人化」の国立大学は,「大学評価」に狼狽して,「生涯学習教育」に対する真面目なアプローチを捨ててしまう。
    大学執行部は,実績の速成を政治的に考えることを「正しい」ことだと思い,「教育と研究」と「社会貢献」のカテゴリー問題をうっちゃったまま,「生涯学習教育」の施策を思惑先行で進める。
    この結果は,「空虚な生涯学習教育」。
    大学教員の方は,この<空虚>を肌で感じる。

    このような状況で,大学教員がとるべきスタンスは?
    大学教員が本領とする学術の方法論に立ち返ることである。
    そしてそこから,「生涯学習教育」の真面目な論を再び起こすことである。