Up 本論考の目的 :「生涯学習教育」の意味考察 作成: 2000-12-04
更新: 2007-12-04


    「改革」は,たいてい失敗する。
    失敗の理由は,無思慮による。
    無思慮になるのは,無思慮が意識されないからである。
    無思慮が意識されないのは,人間がそもそもそのようなものだからである。

    ひとにとって課題になるものは,どれも複雑系である。
    ひとは,複雑系を複雑系として思慮する経験に欠けており,その方法をもっておらず,そして能力を欠いている。
    そこで,単純な割り切り方をして済ませる (思考停止)。 そして,思惑でギャンブルをする (ギャンブルの意識がなくギャンブルをする)。

    古今東西の失敗から学べるはずであるが,このような学習に入ることをめんどうくさがる。 また,このような学習法があることをそもそも知らない。 そして,知識はあっても自分のことに重ねられない。
    そして,無思慮・思惑・ギャンブルを意識せずに,無思慮・思惑・ギャンブルをおかす。

      もっとも,当人は「改革」に先だってしっかり学習しているつもりでいる。 実際,学習が起こっている。
      問題は,それがどんな学習か?である。
      彼らの学習は,つぎのことに向けられる:

        「下知」 ──お上が何を言ってきているか?
        「横並び」──同類は何を考えているか?
        「権威」 ──マスコミ/有識者は何を言っているか?
               アメリカではどうなっているか?

    失敗してはじめて,古今東西の失敗と同じ失敗をやっていたことがわかる。
    「自分は特別・自分が最初」みたいにして,ギャンブルをやっていたことがわかる。 「自分は特別・自分が最初」なわけがないことを思い知る。


    国立大学の「法人化」は,概してこのようなものである。
    そしてそれは,国立大学の破壊になっている。

    この破壊の最も深刻なものは,「人」に関することでは,大学のインテリジェンスの低劣化である。 感覚麻痺の体(てい)で,愚劣なものの考え方が一般的になる。 そして,「教育」に関することでは,大学教育の内容そのものの破壊である。


    大学教育の内容に関する破壊は,「課程再編」という形のものが最も大きい。
    つぎに「コア・カリキュラム」による破壊が大きい。

      「コア・カリキュラム」は,つぎの科目のレイヤの上に専門科目のレイヤをのせる:
      1. 「大学入門」「総合学習」「教職入門」「社会見学」「合宿体験」「地域ボランティア」のような,総合的内容を旨とする科目
      2. 「‥‥と生活文化」のように,教科内容の生活単元化を旨とする科目
      入試も「コア・カリキュラム」を意識して再編されるので,「コア・カリキュラム」は大学教育から専門性を一気に失わせる。

    破壊の大きなものとしてこれに続くのは?
    ここで,「生涯学習教育」を挙げることにする。


    「生涯学習教育」は,「大学の大衆化」と重ねられるものになっている。
    ──「生涯学習教育」に対する認識は,だいたいそのようなものである。
    「生涯学習教育」が降って湧いて,教員にこれへの取り組みが課せられてくる。 教員は,勝手がわからないので,「大衆的なことをやればいいんだろう」の思いで,わけのわからない授業をやってしまう。

    「わけのわからない授業が教員に課せられ,教員がそれをやるようになる」の常態化は,大学のインテリジェンスの低劣化と重なり,そして大学教育そのものをおかしくしていく。
    ゆえに「生涯学習教育」は,簡単に (無邪気に) 扱ってはならないのである。 「生涯学習教育」を課題化するときは,ことの本質から深く考えねばなければならない。

      新機軸の授業は,99.9% 失敗する。 実際,それは「授業」ではなく「実験」である。 授業者がこの失敗から学んでつぎの授業に活かす,といった位置づけになるものである。
      授業は,そのときの思いつきででき上がるようなものではない。 教員はあまり意識していないが,自分の行っている授業は過去の「遺産」の上に乗っかっている。

    そこで,「生涯学習教育とは何か?なぜ生涯学習教育か?」という根本的なところの論考を,ここで改めて行うことにする。