Up 一般公開講座 作成: 2008-02-04
更新: 2008-02-04


    教育的意義・必要性は?

    「法人化」前の国立大学の場合,公開講座は教員が自発的に行うものであった。 すなわち,教育ないし研究上必要があるから,行われた。

    「法人化」になると,公開講座開設が強いられるようになる。
    「公開講座」が箱になる──これを埋める授業をつくることが迫られる。
    (本末転倒!)

    国立大学の「法人化」では,「公開講座をやっていない大学はダメな大学」の風潮 (集団心理) がつくられた。
    教員も,最初からムードに流されてしまう。
    本当なら,「必要だからやっているのか?それとも,本末転倒でやっているのか?」の問いを自ら立てること──この地点 (正気) に先ず戻ること──ができなければならない。 しかし,この問いがあるということさえ,思い浮かばなくなる。

    例として,北海道教育大学の場合を見てみる。





    需要があるのか? (需要の一般状況)

    「法人化」の国立大学は,公開講座をやっていないとダメな大学にされる。
    この強迫感があると,公開講座は (1)「公開講座先ずあきり」と (2) 思惑 ("If we build it, they will come.") で立てられるようになる。 ── (1) 教育的意義・必要性と (2) ある程度確かな需要観測をもとに公開講座を考える,という姿勢はなくなる。

    公開講座の本来のものは,「教員の自発による公開講座」である。
    これは授業者個人の裁量であるので,「教育的意義・必要性」は公開講座が問われる形にはならない。
    この場合の問題の形は,主に「収支計算・コスト対パフォーマンス比」である。この形で問題になったときに「思惑先行」が言われることになる。( 収支計算は? コスト対パフォーマンス比は?)

    一方,トップダウンで降りてくる「大学評価のためにする公開講座」の場合は,「教育的意義・必要性」は別の意味で問われない。すなわち,この場合には,「教育的意義・必要性」は最初から考えられていない。 「実施」の形づくり (大学評価に対するアリバイづくり) だけが求められている。




    収支計算は? コスト対パフォーマンス比は?

    公開講座は,基本的に,教員が個人裁量/自己責任で行う。 そして教員が個人裁量/自己責任で行う公開講座の場合は,コスト対パフォーマンス比は自ずと妥当なものに落ち着く。コスト対パフォーマンス比の問題発生は,例外的としてよい。

    コスト対パフォーマンス比の問題が発生するのは,公開講座が組織的に取り組まれる場合である。
    このときは,「見えないコスト」(個人の時間と労働量) と収支計算に現れるコスト,そしてこれに対するパフォーマンスを,厳格に問題にしなければならない。

    公開講座は「やることが善」ではないのだが,「大学評価」に狼狽して点取り主義に走ると,「やることが善」になってしまう。そしてこの場合,コスト対パフォーマンス比が考慮の外に置かれるようになる。




    どのような教員組織になる?

    本来,公開講座は教員個人の裁量と自己責任で行うものである。 この場合,「どのような教員組織?」の問題は生じない。

    「法人化」の国立大学では,大学主催の形で公開講座を組織することを「大学評価」のポイントと見なす傾向が出てきた。 そして,公開講座実施がトップダウンで進められるようになった。
    しかし,トップ主導の公開講座は,始める前から形骸化する。
    誰でもいいからなり手を決め,公開講座実施の形にもっていく。形がつくられればよい──内容はどうでもよい。

    この「大学評価のためにする公開講座」は,軌道に乗るのか?軌道にのせるべきか?
    決して軌道にのらないし,軌道に乗せるべきでない。
    そして,公開講座であれば,トップ主導であっても<しがらみ>はつくられない。 よって,「やめる」を決めればやめられる。
    こういうわけで,「大学評価のためにする公開講座」では,「どのような教員組織?」は問題にならない。やめるべきものであり,そしてやめられるからである。




    組織への影響は?

    先ず,公開講座は,規模としては小さいものであるが,組織の精神文化への影響は小さくない (大きい)。 すなわち,公開講座の内容は,大学の教育内容に対する雰囲気をつくる。

    教員個人が自分の裁量・責任で行う公開講座は,大学が命としている「個の多様性」の一つの要素である。 (大学は「個の多様性」の現れであり,「個の多様性」が大学の命。)

    教員個人が自分の裁量・責任で行う公開講座に対して,大学執行部が組織する公開講座がある。 これは<政治>である。
    すなわち,「大学の教育内容に対する雰囲気・指向性づくりのために公開講座を用いる」という「改革」の戦略が立つ。 ──大学の精神文化を「改革」する事業の構想において,公開講座は費用対効果比の優れたものに見えるわけだ。 それは,公開講座を「コマーシャル/プロパガンダ」として用いるということ。

    実際,「法人化」の国立大学は,公開講座の運営を「改革」の要目の一つに数えている。 公開講座が「大学評価」のポイントになると考えているためであるが,このこととあわせて,大学の精神文化の「改革」に公開講座が「コマーシャル/プロパガンダ」として使えるという意識・無意識がある。

    大学執行部が公開講座を主導するとき,これの組織への影響の形は,<政治>の独走である。 ── 一般に,組織執行部は自分を<無謬の者>にして政治する。 そして組織は,雰囲気に弱く,雰囲気で動く。 一旦動くと,惰性になる (惰性にストップがかからない)。 惰性は,「身動きができなくなる程に被害・損害が大きさになる」に至って,はじめてストップがかかる。