Up 「生涯学習教育」が教員養成課程の課題になる条件 作成: 2008-01-18
更新: 2008-01-18


    国立の教員養成課程は,己の本分を行う。
    「生涯学習教育」が国立の教員養成課程の課題になるのは,国立の教員養成課程の本分の一環としてこれが課題になる場合に限る。

    「本分の一環として課題になる生涯学習教育」を考えるために,対比的に,「本分の一環ではない生涯学習教育」が発生する形を押さえておこう。


    先ず,現実的ではないが論理の上の可能性として,つぎの形がある:

     (1) 国立のある教員養成課程が力を持て余していて,その力を社会貢献一般に向けようとする。 そしてこの中で,「生涯学習教育」が課題にされる。

    「現実的ではない」の意味は,国立の教員養成課程で力を持て余しているところは無いだろうということである。
    しかも,「力を持て余している」に対して本来行うことは,本業の充実あるいはリストラであって,力を社会貢献一般に向けることではない。(《力を持て余している → 力を社会貢献一般に向ける》は,善いことのように見えるかも知れないが,邪道である。)


    もう一つ,これは現実的なものとして,つぎの形がある:

     (2) 国立のある教員養成課程が,金策として「生涯学習教育」の経営を考える。

    「これは現実的」の意味は,国立大学の「法人化」により,国立大学は金策することが褒められるものになったからである。

    「金策」の論点は,「邪道」云々ではない。
    「<国立大学>の意味がそもそも無くなる」というのが,これの論点である。

      「法人化」の意味は,「マネー本位になれ」である。
      実際,ファンドを収益の中心にする国立大学が現れてきてもよいし,「法人化」の趣旨からいえば,そのときは,その大学の「甲斐性・力」が讃えられ,尊敬の眼差しが向けられねばならない。
      「金策せよ」は,「アルバイト・しのぎをせよ」ではなく,「マネー本位になれ」である。 しかしこのときには,<国立大学>の意味がなくなる。

    (2) の「生涯学習教育」は,「法人化」の国立教員養成課程の本分の一環である。 しかし,本論考の立場として,これを「国立の教員養成課程の本分の一環」とはしない。
    本論考の立場は:

      「法人化=マネー本位」は,「改革」の浮かれ現象であり,「国立大学」の意義に照らして,真面目なものではない。
      よって,じきに止む。