Up デザイナー養成とアブナイ者養成 作成: 2008-03-28
更新: 2008-03-28


    ディジタル・リテラシー教育は,つぎの教育と組になる:

    1. 教養
    2. 「足が地についている」を意味する専門性

    これを欠くと,「アブナイ者/迷惑な者」養成になる。
    「モンスター」の一類型の形成に与るわけだ。


    ディジタル・リテラシー教育は,デザイン教育の中に置かれることがある。
    そしてこのときは,ディジタル・コンテンツ・デザイナー養成の趣になる。

    デザイナーとは,端的に「製品の形をつくる者」のこと。 (本質的な意味で,「デザイナー」は「プロダクトデザイナー」と同じ。)
    製品のデザインをデザイナーに依頼する者は,デザイナーにデザインの制約要素 (constraints) を伝えて,デザインが出来上がるのを待つ。 出来上がってきたデザインが妥当なものなら,内容物をこの形に収める作業に入る。

    デザイナーは,ふつう,製品については素人であり,デザインの制約要素を知らない。 制約が十分にとらえられていなければ,トンチンカンなデザインをつくってしまう。


    デザイナー養成コースの学生が社会問題をテーマにしたコンテンツをつくると,ひどく陳腐・幼稚・類型的な内容になる。
    どうしてか?
    社会問題についてしっかり・深く考えることは教養・専門性のなせる技なのだが,彼らはこれをやっていないからだ。 社会問題についてしっかり・深く考えることについては<子どものアタマのまま>なので,子どもが考えるような内容になる。
    見栄えと内容のギャップがものすごい。

    当人はこのことがわからない。
    実際,<子どものアタマのまま>は,大人になって振り返るときに,はじめて見える。 子どもには,自分の<子ども>であることが見えない。

    したがって,デザイナー養成コースでも (デザイナー養成コースだったらなおさら),つぎのことをしなければならない:
      自分の<子どものアタマのまま>を警戒できるようになるアタマをつくる。
    デザインを領域横断的なものにしているようなカリキュラムは,ダメ。
    「デザインを一つの専門性の上に措く」という構造が要る。


    デザイナー養成が「アブナイ者/迷惑な者」養成に転じる危険を十分理解しておくことが必要である。 (「ジェネラリスト養成」も同じ)
    この場合の「アブナイ者/迷惑な者」は,つぎの傾向性をもつ者のこと:

    1. 「現場 → デザイナー」の関係を「デザイナー → 現場」にひっくり返し,
    2. 「デザイナー → 現場」のデザイナー役を自任する。
       ("If I build it, they will come.")

    行政 (教育行政,農政,‥‥) は,典型的にこれである。
    革命家 (毛沢東,ポル・ポト,ヒトラー,‥‥) もこれ。
    「連携」「コラボ」「地域活性化」の旗振り好きもこれ。

    これらの者は,つぎの問いをもたない:

      なぜ自分が「デザイナー → 現場」のデザイナー役なのか?
      なぜ自分以外は,自分の旗の下に参集する役なのか?

    ──この問いが持たれない原因は,つぎの2通り:
      1. エリート意識がある
      2. 子どものアタマのまま