Up 「インテリジェンス」の風景 作成: 2007-11-15
更新: 2007-11-15


    digital の風景がつまらない/みっともない/くだらないのは,「生活が人工物に占められる」風景がもともとつまらない/みっともない/くだらないからである。 digital の風景が特につまらない/みっともない/くだらないというのではない。


    自然の風景と都会の風景を比べてみる。
    自然の風景には,インテリジェンスを感じる。
    都会の風景には「チープ (cheap)」を感じる。

    この感覚の違いは,自然物の形と人工物の形の違いに因っているわけだが,両者の形の違いは何か?

    自然物の形は,生成/成長の形である。
    一方,人工物の形は,固定ユニットのつなぎ合わせの形である。

      比較せよ:木の形とケータイの形,人と人型ロボット


    生成/成長は圧倒的に複雑系であり,一方,固定ユニットのつなぎ合わせは単純系である。
    自然の風景にインテリジェンスを感じ都会の風景にチープを感じるのは,複雑系にインテリジェンスを感じ単純系にチープを感じるということに他ならない。

      複雑系に対しては,観察・思念が尽きない。 この「観察・思念が尽きない」という点が,「インテリジェンスを感じる」と関係している。
      現代工芸よりも伝統工芸にインテリジェンスを感じるのは,自然の取り込み度合いが伝統工芸において大きいからである。

    人間社会の「インテリジェンス」は,生成/成長のインテリジェンスには到底及ばない。 というより,比較することがそもそも無意味である。──次元がぜんぜん違うのだ。


    「生活が人工物に占められる」とは,生活がチープに占められるということである。 人が複雑系のインテリジェンスを失っていくということである。

    しかし,おもしろいことに,ひとは「生活が人工物に占められる」ことの方にインテリジェンスを感じる。
    この「インテリジェンス」は,ゲームのインテリジェンスである。

    人工物の上でゲームすることに嵌り,ゲームのインテリジェンスを開発していく。 そして,この中で生きる。
    「ゲームおたく」は,いわゆる「ゲームおたく」に限るのではなく,人間社会に一般的/本質的なものである。


    「ゲームおたく」を反省する契機は,ゲームそのものである「人工物に占められた生活」の中には存在しない。
    契機となるものは,自然のインテリジェンスである。