Up 商品経済社会における「多様な個の共生」の位相 作成: 2008-07-04
更新: 2008-07-04


    ひとは,<我>の不思議を携えて生きる。
    <我>は,考えれば考えるほど,絶対的なものになる。
    (ただし,考えてもわからないので,これについては思考停止・閑却するようになっていくが。)

    <我>の絶対を自分以外の者にも認めるとき,「個の尊重」に進む。
    「個の尊重」の意味は,「個として生きる権利 (生きる術の自由) を認める」である。

    人間は,共生する。
    共生を「個の尊重」の上に立たようとするとき,その方法は「個の多様性の解発(release)」「自由の解発」になる。


    「自由」「生きる術の自由」は,つぎの自由に転ずる:

      欲得の自由
      自分に都合のよい世界を工作する自由
      他人を利用する自由 (われ先に取る,奪う,だまし取る,殺す等の自由)

    「自由の解発」の舞台となっているわれわれの社会は,商品経済社会 (市場原理が貫徹する社会) である。 そしてこれは,他人を利用する自由 (われ先に取る,奪う,だまし取る,殺す等の自由) が貫徹される社会である。
    どういうことか?

    商品経済の本質は,「商品価値の無根拠性」にある。
    経済活動は,この無根拠性を利用する。
    実際,<商品偽装>は,商品経済の悪しき部分の現れではなく,商品経済の本質である。 ──商品戦略の中心に「デザイン」があるが,「デザイン」は「商品偽装」と本質において同じである。

      「商品偽装」と言えば悪だが,「デザイン」と言えば,なにかしらよい意味の響きがする。 しかし,デザインは,「他人を利用する」という形で「自分に都合のよい世界を工作する」手法である。 また,この意味で,デザインはテロである。 ──そして,デザインはしばしば<絶対的善>を装う。(例:ユニバーサルデザイン)


    商品経済社会/自由主義社会は,「多様な個の共生」と「他人を利用する自由」の矛盾がはっきりと現れる社会である。
    この社会では,共生のイデオロギーと市場原理のイデオロギーが,集団間で,そして個人の内でも,つねに葛藤する。 両者の優勢・劣勢が,<流行り>として,周期的に変化する (振り子運動)

    この振り子運動の極は,多かれ少なかれ<破壊>である。
    ──ひとは<破壊>を見ないと,宗旨替えをしない。
    問題は,この<破壊>の程度の制御である。
    ここに,思想とか科学が課題になる。