「役割行動」の意味 作成: 2006-07-29
更新: 2006-07-30


    わたしたちは人の様々なシステム (家庭,学校,職場,‥‥)の中に生き,そして役割を演じて生きている。
    実際,人が役割行動をやめることをしたら,社会はたちまちに崩壊する。


    人は,社会生活においては,他者をその役割において受けとめ対応する。
    (翻って,親しくなるとは,役割という垣根がお互い取り払われること。)

    「他者をその役割において受けとめ対応する」には,他者を本体では見ないという含意がある。
    そこで,(本体は能力的にどうということはないのだが) 役割において上に立てる,役割において畏怖する,といったことが起こったりする。


    この行動メカニズムには,実に深く広い含意がある。
    「権威」とか「保護」とかも,これの含意として考察することができる。

    役割行動のうちには,上下関係を立てる役割行動(一方の意思に他方が従う)がある。 <教師─生徒>の関係は,上下関係である。

    教員養成大学の新入生に<教師─生徒>の関係を議論させると,たいてい「尊敬」とか「信頼」とかを必要条件のように言い出す。 しかし,上下関係の成立は,尊敬・信頼などとは (そして教師の能力とさえも),関係ない。
    実際,嫌いでも軽蔑していても「教師は教師」という分別を,生徒はもつ (ように育てられる)。 それに,多様な個である生徒すべてから尊敬・信頼される教師など,もともとあり得ないことだ。

      翻って,「尊敬・信頼される教師を目指す」というのは,スタンスとしては「個人の勝手」に属する。 ──こんなふうに言うとびっくりする教育者がいるかもしれないが,本質論としてはこの通りである。


    役割ゲームの含意は深く広いが,その一つ (要素的な一つ) に「保護・安心」機能がある。
    人は社会人として生きるとき,「新米 → ピーク → 体力の衰え」のライフサイクルを経る。 これを安心して生きていけるために,「腐っても教師は教師」「腐っても上司は上司」のような役割ゲームが必要になる。

    実際,役割ゲームが捨てられる社会は,純粋能力主義社会であって,生存競争して生き残っていくような生き方しかできない。わずかな期間のピーク時を生きるために,強者からつぶされないように隠れて力を蓄え,そしてピークを過ぎ第一線を保てなくなると,おしまい。

    一方,役割ゲームのメリットは,権威,長老政治,保守,停滞といったデメリットにそのまま裏返る。
    このため,世代代わりが阻害されないようにするための (「任期・定年」といった) 装置が,制度化される。 また,能力主義をバランスよく配合するという工夫がなされる。

    しかし,これを上手に行うことは容易でない。人間という種がそもそもそんなに上等ではないということもある。人間の歴史は,一面,このゲームに失敗の連続の歴史である。


    役割ゲームは,功罪とりまとめて,人が生きることのベースになっている。
    すべてのアプリケーションはこのベースの上に置かれる。
    ベースがおかしくなると,アプリケーションが機能しなくなる。


    役割ゲームを成立させる要素のうちには,「道徳/倫理」とか,そして論議の多い「修身」「愛国心」なども入ってくる。「修身」「愛国心」などと言うと「進歩派」から警戒されそうだが,これなしに社会のアプリケーションは論じることができない。

    ちなみに,「進歩的」と称される教育論は,概して,<ベースとアプリケーション>構造のうちのベースの重点問題化に警戒感を示す。(例:実質陶冶に対して形式陶冶を立てる)
    ベースに対しては「臭い物に蓋」のようなスタンスをとって,空想的な問題設定・教育施策を押し進める。
    そして,自ずと失敗。
    「反動」サイドが路線変更。
    10年から20年ほど息をひそめていると,世代代わりが起こって,失敗の記憶が失せる。
    そこで,また同じことを始める。
    ──教育施策の振り子現象は,ほぼこの図式で説明できる。