Up 授業シャットアウト行動としての私語:要旨 作成: 2012-01-28
更新: 2012-02-02


    つぎの2つは同型である:
    雇われる側が,職場放棄を以て,罷業する。
    この職場放棄に対し,雇う側がつぎのように言う:
     「このことで生活ないし仕事の上で迷惑する人がいる。
      これは,その人たちの<生活・仕事する権利>の侵害になる。
      したがって,やってはならない。
      また,この業務は,経営者がよく考え,よいものをつくろうという
      真摯な気持でつくりあげたものである。これにしっかり応じることが
      できないのは,人として劣ったところがある。
    学生が,私語を以て,罷業する。
    この私語に対し,科目を運営する側がつぎのように言う:
     「このことで,授業を聴けなくて迷惑する人がいる。
      これは,その人たちの<聴く権利・教育を受ける権利>の侵害になる。
      したがって,やってはならない。
      また,この授業は,授業者がよく考え,よいものをつくろうという
      真摯な気持でつくりあげたものである。これにしっかり応じることが
      できないのは,人として劣ったところがある。

    授業は,「聴く」ことの強制である。
    授業がよければ,学生はこの強制を受け入れる。
    授業が拙ければ,この強制は学生にとって耐えられないものになる。

    授業が耐えられないという理由で授業にストップをかけるのは,反社会的行為である。 すなわち,つぎのカラダをつくることは,この社会での「成長」の含意である:《授業が耐えられないという理由で授業にストップをかけることは,反社会的行為としてこれを忌避する》
    そこで,聴き手は,話し手を自分からシャットアウトすることを,身を保つ方法にする。 耐えられないので,シャットアウトするわけである。
    シャットアウトの方法は,目を閉じ耳を閉じるとか,そのまま居眠りに進むとか,私語をするとか,である。

    ここで,「聴く権利・教育を受ける権利の侵害」の論法で,私語が封じられる。
    聴き手に残された方法は,<目を閉じ耳を閉じる>ないし<そのまま居眠りに進む>である。

    しかし,<そのまま居眠りに進む>は,「居眠りをするとは何事だ!」が,強くあるいはやんわりと言われることになる。
    また,この授業では,<目を閉じ耳を閉じる>もできない。 それは,授業の時間内に授業感想レポートを作成することが,学生に課されているからである。

    質疑の時間が最後に用意されていることは,学生の罷業をつぶした代償にはならない。
    授業は,完遂されたからである。
    授業は,つぶされずに済んだ。
    授業は私語でつぶれるが,質疑ではつぶれない。


    教科教育法では,授業がつぶれるのを教師の問題にする。
    つぶすことがその授業にふさわしいことなら,生徒は授業をつぶしてよいということである。
    そのつぶしが,教師教育になる。
    教員は,つぶされて成長する。

    これは,大学の授業についてもあてはまるものであるが,一般にはそう受け取られてはいない。
    強調するが,生徒の私語は,生徒が授業をつぶしにきているということである。そしてそれは,つぶされることがその授業にふさわしいということである。


    授業開始のとき,生徒の私語がなかなか収まらない。
    一般に,「授業開始の際,生徒の私語がなかなか収まらない」の意味は,「《授業開始の際,生徒の私語がなかなか収まらない》が,この科目にふさわしい」である。 科目が,「《授業開始の際,生徒の私語がなかなか収まらない》が,この科目にふさわしい」というものになっているということである。

    科目をそのようにしたものは,何か?
    <これまでにやってきた授業>である。
    学生は,この科目の授業をこれまで受けてきて,《この科目は,大事なことが開始される科目でない》と判定する者になっているのである。