Up ディレッタントと教育現場の考え方の違いの根本 作成: 2006-12-28
更新: 2006-12-28


    「ゆとり」路線の破綻は,生徒に生じているつぎのことをもって宣告される:
    • 基本的な読み・書き,計算ができない
    • 簡単な英単語も知らず,スペリングもめちゃくちゃ
    そしてこれに
    • 基本的な行動様式,マナーを身につけていない
    ことが重ね合わされる。
    要するに,「めちゃくちゃな生徒をつくっている」が,「ゆとり」路線破綻の受け取り方になる。

    「ゆとり」路線の破綻は,反動として「基礎・基本」ディレッタントを呼び起こす。
    「基礎・基本」ディレッタントの言は,要するにつぎのようになる:
      基礎・基本をきちんと指導しろ。
      そうすればいまのようなめちゃくちゃな生徒にはならない。


    教育を本業とする者と教育のディレッタントの違いは,教育が現実になっているか否かだ。
    教育を本業とする者は,個の多様性という現実と時間を相手にする。
    ディレッタントの方は,「基礎・基本をきちんと指導」のことばを言うことで<現実>にコンタクトしている気になる。

    ディレッタントは,つぎのように考える:
      基礎・基本がなっていないのは,基礎・基本をきちんと指導していないからだ
    一方,教育を本業とする者の意識は,つぎのようになる:
      ディレッタントがどんな意味で「基礎・基本の指導」を言っているのか知らないが,いずれにせよ「基礎・基本の指導」がうまくいかないから苦労している。

    ディレッタントは「成らぬは為さぬ也・為せば成る」を言い,現場は「成るように為すは難し」を実際問題として抱える。


    実際,「基礎・基本の指導」ということを言い出せば,学校教育全般が「基礎・基本の指導」である。 そして,この「基礎・基本の指導」で疎外される生徒が現実に出てくる。

    外部者は,このような生徒を「アタマが悪い」「なまけている」「意志が弱い」のように劣等分子化して考えやすい。
    一方,教育の現場にいると,この種の疎外現象は個の多様性のように思えてくる。 実際,教育を本業とすると,生徒個々の有り様がそれぞれ尊重に値するもののように見えてくる。 そこで,現場では「個性の伸長」が哲学になりやすい。


    「個性の伸長」の教育哲学は,安直な思考にかかると,「生徒主体,教師は支援」に陥る。
    「教える」ことに罪悪感をもち,「教える」ことに躊躇する。
    そしてつぎのところまで行ってしまう:

      「教える」は「詰め込み」である。
      「ゆとり」を与えれば,「詰め込み」から解放された生徒たちは活き活きと主体的な学習に向かう。


    「基礎・基本」の問題を考えるときは,ここで述べたような「ディレッタントと教育現場の考え方の違い」を先ず知っておくことが肝要である。