Up 学校教育の矛盾・複雑を見る眼を養う 作成: 2006-11-11
更新: 2006-11-11


    学校教育は複雑系である。論を立てれば必ず矛盾が出てくる。
    「首尾一貫」とか「スジを通す」のようなスタンスは,必ず破綻する。(自分が破綻するだけなら自分の責任ということでかまわないが,周りが被害を受ける。)

    学校教育を語らせると,まちまちの意見が並ぶ。
    意見の違いは,知識・知力のレベルの違いではない。
    経験の違いというのでもない。

    ひとは,「まちまちの意見が並ぶ」ということの意味を先ず理解しなければならない。

    例えば,「国論二分」の類のことが至るところにあるが,正誤・善悪を闘わせるということなら二分などあり得ない。 (事実上の対立候補2人が十万の票田で競い千票弱の僅少差で明暗が分かれるといったことを,不思議なことと思わないか?)


    「意見まちまち」とか「僅少差」といった事態は,「どっちもあり」「どっちもどっち」を表している。 すなわち,それは解釈に関する確率事象になっている。

    複雑系に対する解釈は,確率事象になる。
    よって,知識・知力レベルの違いに関係のない様で,「国論二分」になる。

    その種の論は,個々に正しくそして誤っている。
    「正しくて誤っている」とは,「局所的に対象と合っているが,この論を延長すると対象から著しく乖離するようになる」ということ。 ──絵に表すとつぎのような感じである:


    複雑系に対しては,1本の線を引くような論の立て方はダメ。 いろいろな線を組み合わせるやり方でなければならない。

    ここで肝心なことは,論理的に科学的に論を立てるということである。
    「1本の線を引くような論の立て方はダメ」とは「線を引くな」ということではない。 対象は,さまざまな線を引き,試すことで明らかになる。 ──上記の絵で言えば,対象の形は線を引く実践によって得られる。


    ところが,複雑系に対する「1本の線」的な論は「どっちもあり」「どっちもどっち」になるので,みながわかったような気持になり,気楽に好きな「1本の線」を言う。 学校教育を語らせればみなが評論家になるというのは,このような構造に因っている。 (逆に,単純系の論をつくることに対しては,ひとは慎重になり,尻込みする。拙劣な論は,はっきりそうとわかってしまうからだ。)

    学校教育は複雑系である。それは,立ち位置を変えれば違う面を見せてくる。
    経験の浅いうちは,一つの面を見てそれが全部だと思ってしまう。そして,それは仕方がない。 経験・学習・研鑽が,見えてくる面を増やす。
    しかし,「いま見えている面は全体のごくわずかに過ぎない」「経験・修行を積むことでいま見えない面が順次見えてくる」ということをことばで持っておくことは,役に立つだろう。 ──実際,これが探求へ進むときの意識の形である。