Up 学校教育論における「改革」と「保守」 作成: 2007-01-09
更新: 2007-01-09


    学校教育論における「改革」と「保守」の役回りを押さえるとしよう。

    学校教育は<複雑系=均衡系>である。
    「改革」は,この系の中の問題点を見出し,それの解決を図る。
    「保守」は,系の均衡が「改革」によってどのように壊されるかをとらえて,「改革」にチェックを入れたり,ブレーキをかけたりすることが役回りになる。

    均衡の破壊は,直接には見えない。そして,思いもよらない遠隔や深層に及ぶ。 したがって,これの調査・把握には,科学的および論理的なアプローチを要する。

    均衡の破壊が深層に及ぶほど,系の破壊は決定的/本質的になる。 よって,「保守」は,系の深層を重点化してチェックすることになる。

    系の深層の内容になるものは,系を支えているいるさまざまなインフラである。
    例えば,「先生・生徒」の役割ゲームがある (「先生・生徒」の役割ゲーム)。 これが壊れたら,学級,授業,そして結局,学校自体が立たない。
    よって,「保守」は,規律・強制的指導が「改革」によって損なわれることがないかを重点化にチェックすることになる。

    規律・強制的指導は,<個の多様性>とバランスをとるのが難しい。
    <個の多様性>の理解の弱い者が規律・強制的指導を主導すると,度外れの画一化に進む。 そして,それからはじかれる者の被害が大きくなる。

    実際,画一化がもたらす疎外の被害を問題化し解決を図ることが,「改革」の役回りの中心になる。
    そして「改革」の場合には,<インフラ>の理解の弱い者が疎外救済を主導すると,度外れの個人尊重主義に進む

    まとめると,「保守」は<インフラ>防御の役回りから,「改革」が陥りやすい度外れの個人尊重主義を警戒する。 「改革」は,<個の多様性>防御の役回りから,「保守」が陥りやすい度外れの画一主義を警戒する。

    問題は,「改革か保守か」ではない。 問題は,「改革」「保守」それぞれにおける<知的成長>と両者の間の<バランス>である。
    「改革」「保守」は,一般に,別の者が担当する。 独りで両方やるのは,独りで将棋をするようなもので,<知的成長>と<バランス>の両方においてうまくいかない。


    学校教育論の振り子運動は,「改革対保守」の攻防の現れというものではない。
    学校教育の振り子運動は,つぎのことに因る:

      <個の多様性>の理解の弱い者が,
       規律・強制的指導を主導する立場に就き,度外れの画一化を進める。
      <インフラ>の理解の弱い者が,
       疎外救済を主導する立場に就き,度外れの個人尊重主義を進める。

    一方の側が失敗をやって失脚し,その失敗で損なわれたものを挽回する者として別の側が優勢になる。 「喪ってはじめて,喪われるものだということがわかる」という知的レベルであり,「改革対保守」の攻防以前である。

    学校教育論には,<複雑系=均衡系>を「改革対保守」で考えるという方法がもたれていない。
    「<複雑系=均衡系>に対する科学的アプローチ」というコンセプトがないのだ。

      最近のことを例にするなら,『教育基本法』の改正。議論に学校教育論は無く,まして科学とは無縁。党派的なキャンペーンの形でしかこれを問題にできないというのが,いまの知的状況である。(「教育基本法改正」をめぐる議論)