Up 「改革対保守」の構造 作成: 2007-01-08
更新: 2007-01-09


    「保守」とは,喪われそうなものに対しそれを喪われまいとする「保守」のことである。
    喪失をもたらす原因は,状況の自然な変化 (<惰性>) とか,ある<作為>である。
    <惰性>を原因と見なしたときは,この<惰性>を止(と)めようとする。
    <作為>を原因と見なしたときは,この<作為>を止(や)めさせようとする。

    「改革」は,「保守」の内容の中に問題を見ていて,これを改めようとする。
    よって,「保守」の側にとって,「改革」は保守しようとしているものを壊そうとする<作為>になる。 そこで,「改革」と「保守」の対立となる。

     註 : ここでは,「全体にとって善かれ」のスタンスとしての「改革・保守」を問題にしている。──「保守」を (「既得権益を守る」のように)「利己」と同じに見る人がいるかも知れないので,いちおう断っておく。


    「改革対保守」は,良いことがつねに良く,悪いことがつねに悪いところでは,起こらない。良いと悪いが裏腹になっているところで起こる。 良いと悪いが裏腹になっているとは,均衡しているということである。
    裏返せば,「改革対保守」は<複雑系=均衡系>に関する判断のところで起こる。


    改革のスタンスは,自ずと,改革のメリットを集めようとする。改革を楽観しようとする。
    逆に,保守のスタンスは,改革のデメリットを集めようとする。改革を悲観しようとする。
    <複雑系=均衡系>に関する判断で「改革対保守」が生ずるのは,いわば「天の配剤」のようなものだ。 この対立が起こらないとたいへんなことになるところを,確率事象に対する確率計算の解のように,上手い具合にこの対立が起こってくれる。


    「改革」は,<複雑系=均衡系>という人知を超えた対象に,己の狭量で挑もうというわけだから,普通は失敗する。 そして,「保守」の側が失敗の被害を手当する役に回る。
    よって,<賢>は「保守」の方に感じられるようになる。「改革」は,たいてい貧乏くじを引く役回りで終わる。

    また実際,改革に対する楽観視は無知 (<複雑系=均衡系>についての無知) および問題点の無視に通じ,悲観視は経験知 (<複雑系=均衡系>についての経験知) と問題点の精査に通じるので,「保守」の方に<賢>の分があるというのは印象だけのことではない。
    「若いときは改革,歳をとると保守」も,経験知の効果である。 (ちなみに,「若いときは改革」をはしょると「歳をとると保守」にもなれない。なぜなら,失敗こそが経験知であり,失敗をしなければ経験知はつかないからだ。)


    世の中の進歩は,「改革」が切り拓き「保守」が手当てするという形をとる。
    ここで,「改革」が単純に失敗し「保守」がこれを手当てしてもとの状態に戻すだけであれば,退歩はあっても進歩はない。
    進歩は,「改革対保守」の中で問題構造のより深い理解が得られ,問題解決の技術の向上が得られるところにある。
    特に,「改革」は必ずしも「改革」ではない──すなわち,無知・無能の独走に過ぎないものが「改革」を標榜していることがよくある


    危険は「保守」の方にもある。 すなわち,状況の<惰性>の中で喪われそうになっているものに対し,これを喪われまいとして<惰性>に抗おうとする場合である。 実際,この行動は,<複雑系=均衡系>を壊すものになる。
    これは,保守が目的になった「改革」である。このときには,この「改革」にブレーキをかける「保守」が対立項として立たねばならない。